ウズベキスタンへの旅① 旅のキーワードは「棄民」
ウズベキスタンへの旅①
旅のキーワードは「棄民」
日本コリア協会・大阪 飯田光徳
今年度の北東アジア平和と友好の旅(日本コリア協会・日由友好協会・私学退職者の会が共催)は、9月末からウズベキスタンへの旅となった。ウズベキスタンは1991年に旧ソ連より独立した、中央アジアの有力国だ。国土の可耕地は9%に過ぎず、広大な砂漠地帯が広がる。内陸部ゆえに年間の、日々の寒暖の差は激しい。昼間40度近くなったかと思えば朝方には15度ぐらいまで下がる。
飛行機が付いた首都タシュケントは、旧ソ連の第4番目の人口規模を誇り、人口200万人を超える中央アジアの最大の都市だ。また世界で最も古い都市のひとつとして挙げられ、その歴史は紀元前にさかのぼることができる。シルクロードの中間点として栄えた町である。
今回3団体がウズベキスタンを旅先に選んだのには理由がある。昨年のサハリン(樺太)への旅に起因する。そこで出会ったのは日本の植民地支配よって連れてこられたコリアンたち。戦後彼らはその地に捨て置かれ、半世紀が過ぎようとする頃やっと祖国に帰ることが許された。また、敗戦を迎えた時、サハリンの地にいた日本兵は、敗戦を知らされずソ連軍とのし烈な戦闘の末、祖国の地を見ることなく屍と化した。まさに日本の軍部と政府の手によって「棄民・棄兵」が行われた。
実はウズベキスタンでも同様に「棄民・棄兵」が行われた。関東軍司令部に裏切られた日本兵は、ソ連兵が「トウキョウ・ダモイ」(東京へ帰還だ)というので「内地に戻れる」と思った。しかし、敗戦後の約2カ月の間に、シベリア、中央アジア、ヨーロッパロシア、極北・外モンゴルなど、約2000の収容所に移送された。シベリア抑留だ。
日本の関東軍参謀本部が、日本の捕虜をソ連軍の経営にお使いくださいという申し出をしていたことで、この「抑留」が生まれた。ウズベキスタンにも約2万5千人が送られ、その痕跡はナヴォイ劇場や数多くのダムに残っている。そのことを見て、学ぶことが一つの目的だ。
そしてもう一つの目的は、中央アジアに居住する数十万人のコリョ人と呼ばれるコリアンに出会うことだ。彼らコリョ人の「ロシア」移住150年以上になる。1863年、咸鏡道(ハムギョンド)の農民ら約60人が、豆満江(トゥマンガン)を渡りロシア・沿海州に入ったことにはじまるという。その後韓国併合、日本の植民地化によりソ連沿海州への移民がすすむ。スターリン時代の1937年、極東から中央アジアへ約17万人の第一陣の強制移住が行われた。着の身着のままで追われ、列車内で餓死・凍死したコリョ人も多数いた。ウズベキスタンで待っていたのは過酷な開拓だった。今日残るソ連の史料から明確な強制移住の理由は読み取れないが、日ソの緊張が高まる中、盛んな日本の諜報活動によって朝鮮人への不信感が増大。スターリンらソ連指導部はその対抗として少数民族の強制移住第一号として遠く離れたウズベキスタンなどにコリョ人を送ったというのだ。
過去に、日本政府が「棄兵・棄民政策」をとり、兵士を、「国体護持」のためにソ連に引き渡したことは消えることのない歴史の事実。そしてスターリンたちも日本の諜報活動におびえ、コリョ人を数千キロ位移動させた。これもまた「棄民政策」だ。歴史のこの事実を検証することは戦争を単に過去のものとせず、これからの平和のために活かしていくことにつながるはずだ。
前置きが長くなった。さあ旅はタシケントの西方の古都、サマルカンドの世界遺産建築物群より始まる。タシケント駅よりスペイン製の新幹線に乗っていざサマルカンドへ。
つづく