音楽と反核・平和(1)

これからは私の「うたごえ人生」の歩みの中で歌った反核平和の歌を振り返ってみたい。プロ・アマを問わず沢山の歌が創られているが、私が歩んだ道の中で出会った歌や運動の歩みを紹介したい。

○うたごえ運動と「原爆許すまじ」

歌好きな私がたまたま就職した職場が音楽が盛んで、誘われるままに武道館での「日本のうたごえ祭典」に参加したことが「うたごえ運動」との出会いである。祭典で歌われている歌は唱歌や流行歌の類ではなく、労働の中での喜び、悲しみ,闘いを創作して歌ったり、まだ返還されてなかった沖縄から数人の代表団が「一坪たりとも渡すまい」を歌い沖縄返還を訴えていたことが衝撃的だった。私の知らない職場である、教育・国鉄・私鉄・金属・自動車・紡績・医療・郵便・電通・港湾・日雇いなどの現場で生まれた歌が鉢巻を閉めたり時にはスクラムを組んで力強く合唱されていた。学校を卒業したばかりの私には違和感があったが、知らない世界に飛び込んで目の前が大きく開けたような感動があった。労働のこと、平和のこと、生き方のこと等々考え学ぶ場となった。ただ有名歌手が歌う歌ではなく、歌が「平和の力」「生きる力」「闘う力」となることをおぼろげ乍ら感じることが出来た。こういう平和で健康なうたごえを広げていく運動が「うたごえ運動」だと知ったのである。

「うたごえ運動」は著名なソプラノ歌手だった「関 鑑子」さんが軍歌しか歌えない時代が再び来ないよう「うたごえ」で平和の砦を作ろうとはじめられた。すると瞬く間に全国に合唱団が誕生した。「うたごえは平和の力」と言う合言葉が広がり、創作はうたごえの機関車として様々な闘いやねがいと共に次々と歌が創られた。そんななかで原水爆禁止の運動と共に創られたのが「原爆許すまじ」であり瞬く間に全国に広がり、1957年モスクワで開かれた世界青年平和友好祭に日本からうたごえ代表団が送られた時には「原爆許すまじ」が世界の言語に訳されて歌われた。反核を願う日本の歌がまさに世界中に広がった瞬間である。こんな活動の中で「うたごえ運動」を指導した関鑑子さんがレーニン平和賞を受賞された。

大阪のうたごえ協議会立川孝信

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