第10回戦争の傷あと銘板めぐり&清掃ツアー

第10回戦争の傷あと銘板めぐり&清掃ツアー

 三宅宏司武庫川女子大学名誉教授のご案内で「大阪砲兵工廠跡」の今も残る建造物の数々を訪れました。JR京橋駅からスタートし、ガラス工場跡や京橋空襲慰霊碑、大阪社会運動顕彰塔、荷揚げ門、化学分析場、第4師団司令部庁舎等などを巡り、大阪砲兵工廠跡碑では、二人連れの市民が飛び入り参加、熱心に説明を聞いたり、写真を撮ったりしていました。参加者は、14名でした。
参加者からの感想は以下の通りです。

DSC_5200.jpg大阪砲兵工廠フィールドワーク 
 三宅宏司武庫川女子大名誉教授のガイドで(第二回)
 5月23日、大阪環状線の京橋から森ノ宮間の西側から大阪城にかけて存在した東洋一の巨大な軍需工場、大阪砲兵工廠の歴史と今も残る数少ない建造物を巡るフィールドワークに参加しました。
1945年8月14日の終戦前日の大空襲によって壊滅するまで75年間大型兵器を造っていたことを知りました。当時、65,000人が働いていたそうで、そこで造った兵器で領土拡大、侵略戦争を続けていたのです。大空襲により、京橋駅では一般の乗客が多数犠牲になり、今も慰霊祭が行われています。戦争の無謀な歴史を残そうという運動がある中、本部本館は一方的に崩され、今は大阪城ホールに変身、移動された碑だけが建っています。それも、何の説明版も無く教えてもらわなければ素通りするだけでした。石造りのアーチ型の砲兵工廠荷揚げ門(写真)は、当日ガイドして下さった三宅先生の懸命の努力で唯一残されたものですが、目立たず説明板もありません。現在緑溢れる大阪城に、場違いのレンガ造りの建物がいくつか残っていますが、保存する気のない大阪市は朽ち果てるのを待っているようです。今、私たちは過去の反省をしながら、遺構を未来に残し、戦争をしようとする勢力と闘わなければならないと熱く心に刻みました。 今村久美子

 勤労協近現代史教室で「軍都大阪」を学び、大阪城戦跡巡りも参加してきましたが、今回はポツンと残された碑や建物の歴史的意味を考えさせられた深い企画でした。小学校六年から京橋の商店街の外れで育ち、高校は玉造まで通っていましたので、三宅先生の「京橋」の「都市計画」のお話はずっと感じていた違和感を払拭できました。今後の大阪の発展のためにも、「軍都大阪」の歴史を残す遺跡に、せめて看板をかける運動をと思いました。 中村玉枝

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