新発見もあり、好評のうちに終わった 第1回 銘板清掃ツアー
第1回ツアーのコース
模擬原爆記念碑(東住吉区田辺)→生玉公園地下壕跡(天王寺区生玉町)→大阪城公園周辺に残る戦争の傷あと(大阪城公園)→「鶴彬の句碑」
模擬原爆投下跡地
11月13日は、秋には珍しい黄砂現象で空はどんよりとしていました。地下鉄田辺駅前で毎日新聞の記事を見て参加された数名と非核の会の会員に代表世話人のあいさつの後、それぞれが簡単な自己紹介、すぐ徒歩数分の模擬原子爆弾投下跡地に建立された慰霊碑前に直行。常任世話人による非核大阪の会が把握している事実関係の説明を聞いて「実際の投下地点は田辺小学校の北側のどのあたりか」「なぜ米軍はこんな爆弾を作ったのか」「田辺が狙われた理由は」「パンプキンと言われるのは」などの質問が次々に出され、一気に和んだ雰囲気になりました。
生玉公園地下壕跡
地下鉄谷町九丁目駅から生玉神社に行くと神前結婚式が行われていました。それを横目で見ながら南に隣接する生玉公園の西側斜面の階段を下ったところに銘板「生玉公園地下壕跡」がありました。新聞報道を見て参加されたMさんが「ハングル語の先生に案内されて一回来た。その時カメラを持っていなかったので、今度は一人で探したが発見できず悔しい思いをしていた。この機会にようやく探せてうれしい」と喜んでいただいて主催者の方も感激。銘板自体の記載内容の文字が見えないほどではないが、少し汚れていたのでペットボトルの水と洗剤で洗い、ぞうきんできれいにふき取りました。先祖の墓掃除の要領です。1991年にコンクリートで固められている入口を壊して大阪市が内部の調査をした時の地下壕内部の見取り図コピーを見ながら、通信施設として実際に使っていたという証言や、「第四師団司令部を移す」のではないかという、地下壕建設の目的や状況を聞きました。「それにしてもわかりにくいとこやな。銘板までの誘導表示が必要ではないか」との声が多数上がりました。
Mさんが「排気塔があったはずや」と言われたので、あちこちを探していたら坂を上がりきったところにそれらしきコンクリートの柱を発見。高さ2メートルほどあり、何の表示もありませんが、叩くと中が空洞になっていることがわかり、参加者一同、大阪市の見取り図にもない発見に大喜びでした。
大阪城公園に残る戦争の傷あと
地下鉄谷町四丁目駅からかなり歩きました。大阪城公園には多くの観光客が訪れていました。少し外れた場所ですが、一応天守閣を正面に見る位置に大型の銘板が設置されています。意識しないと見過ごされる感じではあります。銘板の記載内容や前大阪城天守閣館長提供の地図を見ながら軍都大阪の中心に位置した砲兵工廠の規模の大きさや第四師団の役割などの説明を聞く。ここでもMさんが地図をさしながら「私は砲兵工廠のこの辺で働いていました」と記憶をたどりながら当時の話をしていただき、一同感心することしきり。
鶴彬の句碑
そこから数分歩いて豊国神社東側に移動。戦時中に反軍活動でこの場所にあった衛戍監獄に2年近く収監された鶴彬は、プロレタリア川柳作家で、刑期満了後治安維持法違反で再逮捕、29歳で死去。没後70年の2008年、作家の澤地久枝さん、「上方芸能」誌の木津川計さんらの呼びかけで顕彰の銘石が建立されました。「こんな場所に大阪市が設置を許可したのはなぜだろう」との疑問に、平和委員会のTさんが「銘石はだめ、しかし百日紅の樹三本を寄付する、その付属品としての石」として認められたいきさつを説明、納得。
予定の4時半にツアーは終了、「少し疲れたが、いろんなことがわかり、有意義な企画でした。」「非常にためになった。これからも参加したい」「戦争の傷あと銘板が12枚もあることをもっと府民に知らせていくべき」などの感想が寄せられました。参加者は14名でした。
予定の4時半にツアーは終了、「少し疲れたが、いろんなことがわかり、有意義な企画でした。」「非常にためになった。これからも参加したい」「戦争の傷あと銘板が12枚もあることをもっと府民に知らせていくべき」などの感想が寄せられました。参加者は14名でした。