憲法の話
憲法の話① 集団的自衛権を考える
集団的自衛権を認めようとする主張で、よく用いられる論があります。
「イラクやアフガンに派遣された自衛隊が、隣にいる米軍が攻撃されたときに、これを助けることができないなんて、不都合不合理だ。」と。
一見、なるほどと思わせるものがあります。
しかし、ちょっと待って下さい。米軍や自衛隊は、なぜそこにいるのでしょう?
アフガンへの米軍の派遣(侵攻)は、九・一一テロの容疑者オサマ・ビンラディンをアフガン政府が引き渡さなかったからというものでした。アフガンがアメリカに武力攻撃を加えたものではありません。
イラクにいたっては、大量破壊兵器を保有している疑いがあるというもので、やはりイラクがアメリカを侵略したものではありません。しかも、大量破壊兵器保有疑惑の証拠とされたものがデッチアゲだったということが、のちに明らかになりました。アメリカによる一方的な侵略戦争です。
自衛権というのは、侵略に対する自己防衛。集団的自衛権というのは、自国が侵略されていなくても、同盟国が侵略されたときに、防衛行動をしようというものです。
イラクやアフガンでの米軍の行動は、自国の防衛のためのものではありません。むしろ、イラクやアフガンへの侵略行為です。
自衛隊の派兵は、アメリカの侵略行為を助けようとするものでしかなく、だからこそ、「人道支援」としての派遣だと強弁せざるを得なかったのです。
そうすると、さきほどご紹介した論は、米軍の侵略行為を助けようとするものだということがわかります。
そもそも、唯一の軍事超大国であるアメリカが、他国から武力攻撃される可能性があるでしょうか?おそらくパールハーバーが、米国史上唯一の例で、その他のアメリカの軍事行動は、例外なく他国への軍事干渉―侵略でした。
日本政府がしようとしているのは、米軍の軍事行動への参加協力であり、そもそも集団的自衛権の適否という問題ではないのです。このことが、この問題の原点として、まずは確認される必要があります。
秘密保護法の強行成立の説明として、秘密保護制度が完備されていないと、軍事的な情報を日米が共有できないということが言われましたが、ここで共有されようとしているのは、アメリカの侵略行為に参加するための情報以外にはありません。
いま、アメリカの世界に対する軍事干渉に日本が参加するための態勢づくりが急ピッチで進められています。
次号から、集団的自衛権の問題について、掘り下げて考えることにします。(中西裕人事務局長・弁護士)
憲法の話② 靖国雑感 昨年(2013年)12月の安部首相靖国参拝に思うこと
もう20年ほど前のことになるでしょうか、イギリスのエジンバラに行ったときのことです。
エジンバラ城を見学していて、壁に多くの人名が刻まれているのを見ました。
「栄誉」「名誉」等のきらびやかな言葉が躍るそのリストは、「女王陛下」のために命を捧げた人を称えるものでした。
「国のために犠牲となった人を顕彰する」というのは、珍しいことではなく、戦役の紹介も併記されたこのモニュメントを、特に違和感を覚えるでもなく読み進んでいて、ふと足を停めたのは、「セポイの乱」の文字でした。
インド植民地化の過程で起きた戦役での戦死者を称える記載に、アジア人である私は、少しく不愉快でした。
インド人がこれを見てどう感じるかは、想像に難くありません。
若干の不愉快感とともに、侵略戦争に対する反省を表明している自分の国に誇りを感じたものです。
国のために戦って死んだ人を顕彰する施設は、どこの国にもあるのでしょう。その意味では、「当たり前」のことかも知れません。
しかし、「戦った」ということは、常に戦った「相手」があるということ。
19世紀ならいざ知らず、そろそろ戦った相手のことを慮ってもいい時代ではないでしょうか。
戦死者を称えれば称えるほど、それは殺された相手の心を傷つけるという相関関係があるように思います。
戦った相手であり、国土を蹂躙された中国・韓国が反発するのは、無理からぬことと思います。
そして、「相手」が存在し、その感情を傷つける以上、それは外交問題です。外交というのは、他国とのお付き合いのことだからです。
「外交問題ではない。」と言うのは、「あんたがどう感じようと、知ったこっちゃありません。」と言うに等しく、無神経に過ぎます。
もちろん、相手の感情だけで自分の行動を決するというわけではありません。相手の感情を損ねてでも選択しなければならないこともあることでしょう。
しかしそれは、しっかりした利益考量のうえでなされるべきことです。
「死者を弔うだけのこと」「外交問題ではない」として一蹴するべきことではありません。
靖国参拝によって、首相は、中国韓国の反発を蹴散らして、何を得ようと図っているのでしょうか。
戦死者への追悼は、国家が自国民の生命を強制的に奪ったことへの謝罪であり、贖罪への誓いであるべきです。
決して、「英霊」として称揚することではないはずです。
そしてそれは、戦死者が強制されて奪った他国人の生命への鎮魂と謝罪と、ペアであるはずです。
戦争の犠牲者を追悼するとしたら、なぜ靖国なのでしょうか。なぜ国家神道なのでしょうか。
稿をあらためて、次の機会には、憲法の政教分離について考えたいと思います。
中西裕人常任世話人・弁護士
憲法の話③ 集団的自衛権を考える②
まず、集団的自衛権について、国際法ではどのように定められてるのかを見てみましょう。
実は、どのような場合にその行使が認められるのか(要件)、どの範囲まで認められるのか(内容)について具体的に定められたものは、国際法上存在しません。
唯一集団的自衛権について触れられているのは、国連憲章51条です。
少し長くなりますし、法文独特の難解な文章ですが、重要なものですので、引用しますと、「この憲章のいかなる規定も国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置を採るまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。」とされています。
ここで「個別的又は集団的自衛の固有の権利」とされていることから、集団的自衛権は、個別的自衛権とともに、「固有の権利」として国家が有しているものとされていると解釈されているのです。
ところで、集団的自衛権を固有の権利としている国連憲章51条では、「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置を採るまでの間」という限定が付けられています。
では、国連憲章が国際紛争の解決方法をどのように構想しているのでしょうか。引き続き難解な文章にお付き合い願います。
まず国連憲章1条1項は、国連の目的を「国際の平和及び安全を維持すること」、「そのために、平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧のため有効な集団的措置を採ること」と「平和を破壊するに至るおそれのある国際的の紛争または事態の調整または解決を平和的手段によってかつ正義及び国際法の原則によって実現すること」としています。
これを受けて国連憲章は、まず加盟国の義務として、国際紛争を平和的手段によって解決しなければならない(2条3項)、国際関係において、武力による威嚇または武力の行使を禁じる(2条4項)、と定めます。
では、1条1項で言う「国際の平和及び安全を維持するために、平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧のため有効な集団的措置を採ること」とされている「有効な集団的措置」というのは何でしょうか。
国連憲章は、国際紛争の解決法として、当事国はまず第一に、交渉、仲介、司法的解決等の平和的手段による解決を求めなければならず(33条1項)、それができなかったときは安全保障理事会に付託しなければならず(37条1項)、安全保障理事会は適当な調整の手段又は方法を勧告できる(36条1項)という仕組みにしています。
つまり、国連憲章は、国際紛争の解決方法として、国連の仲裁や司法的解決などの平和的解決、それが果たせない時は安全保障理事会の措置、というシステムを構想しており、個別的自衛権も集団的自衛権も、その行使は、安全保障理事会の措置が取られるまでの間の例外的な措置として限定されているのです。
憲法の話④ 集団的自衛権を考える③
前回、集団的自衛権は、国際法上国家の固有の権利として認められているとされていることをお話ししました。では、このことと日本国憲法との関係はどうなのでしょうか。特に、国連の集団的自衛の行動には日本は参加しなくてはならないのでしょうか?
その答えは、「ノー」です。つまり、そのような義務はありません。
なぜなら、国家はそれぞれの憲法を持っており、そのような多様なものとして国連に参加しているのであって、自国の憲法を保持したまま加盟しているからです。
日本国憲法の非軍事的平和主義と国連との関係では、日本が国連に加盟する時点ですでに問題となっており、日本が国連加盟を申請したときに申請書に付されていた岡崎外相の宣言・書簡には、「国際連合の加盟国としての義務を、その有するすべての手段をもって(by allmeans at its disposal)、履行することを約束」していましたが、ここでいう日本の「有するすべての手段」という文言には、憲法上「有しない手段をもって」までも「履行すること」はできないという意味が含まれているとされています。この文書を作成する過程に直接関わった当時の外務省条約局長西村熊雄は、後に政府憲法調査会に参考人として出席した際(1960年8月10日)、「(この文書を発送することで)日本のディスポーザルにない手段を必要とする義務は負わない、すなわち軍事的協力、軍事的参加を必要とするような国際連合憲章の義務は負担しないことをはっきりしたのであります」と明確に証言しています。
つまり、国連軍が結成された場合でさえ、日本は憲法上の制約故に国連軍に参加できないことを留保していたのであって、国連に対して軍事的協力・軍事的参加はしない態度を明らかにしていたのです。このことは自衛隊発足後の国会答弁において、政府が度々表明していたところでもあります。例えば、自衛隊発足時に、岸首相は、「国連警察軍といいますか、あるいは国連軍、いろんな目的で国連において海外に派兵するような場合がございますが、これに対しては、具体的に日本みずからが自衛隊を出して協力するということは、憲法の上から申しましても、自衛隊の本質から申しましても、これは私は許せないことだと思っております」と答弁しています(1958年3月27日衆議院予算委員会、1970年3月31日衆議院予算委員会、高辻正巳内閣法制局長官答弁も同旨)。このような従来の政府解釈の立場からも、国連の安保理決議を根拠としようと国連自体の活動であろうとそれを理由にして、自衛隊を派兵してこれに協力する余地は全くないのです。
憲法の話⑤ 集団的自衛権を考える④ 従来の政府見解
国際法上国家の固有の権利として認められているとされている集団的自衛権ですが、では、このことと日本国憲法との関係はどうなのでしょうか。
従来自民党政府が、集団的自衛権の行使は憲法上認められないという解釈を採って来たことは、皆さんよくご存じのことと存じます。
もちろん、政府に憲法解釈の権限があるわけではありませんが、今日の問題を考えるために、少しおさらいをしておきます。
まず1960年2月10日、岸首相(安部首相の祖父)の国会答弁。
「集団的自衛権という観念につきましては、広狭の差があると思います。しかし、問題の要点、中心的な問題は、自国と密接な関係にある他の国が侵略された場合に、これを自国が侵略されたと同じような立場から、その侵略されておる他国にまで出かけていってこれを防衛するということが、集団的自衛権の中心的な問題になると思います。そういうものは、日本国憲法上できないことは当然(であります)。」
次に1981年5月29日の政府答弁書。
「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているものとされている。我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲内にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている。」
主なものを2つだけ紹介しましたが、1954年6月3日の下田武三外務省条約局長答弁、1959年3月16日の林修三内閣法制局長官答弁、1969年3月5日の高辻正己内閣法制局長官答弁、1972年10月14日政府提出資料、1981年6月3日の亀田礼次郎内閣法制局長官発言、1983年2月22日の同長官発言など、同種の言明は枚挙にいとまがありません。憲法は集団的自衛権の行使を認めていない。論旨は明快です。
ところが安部内閣は、2014年7月1日、憲法解釈を集団的自衛権の行使が容認されるという解釈に変更するという閣議決定をしました。
自民党内部でも、この決定に対して、「拙速」だとか「強引」だという批判も根強いのです。
ところで、この閣議決定は、日本に対する武力攻撃がない場合でも、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」に集団的自衛権の行使が許される、というものです。
では、日本に対する武力攻撃がなくても、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合というのは、どんな場合でしょうか?
政府は、この憲法解釈の変更を正当化するために、15の事例を挙げました。
閣議で憲法解釈を決めることが出来るかというのは、それ自体が重要な憲法問題なのですが、それは後ほど議論するとして、次回以降は、まずはこの事例を検討してみたいと思います。(中西裕人)
憲法の話⑥ 集団的自衛権を考える⑤
安倍内閣は、2014年7月1日、憲法解釈を集団的自衛権の行使が容認されるという解釈に変更するという閣議決定をするについて、この憲法解釈の変更を正当化するために、15の事例を挙げました。
この事例を検討してみたいと思います。
事例1 避難する日本人を輸送中の米艦防護
「近隣諸国で紛争が起こって、逃れようとする邦人を輸送する米国の船が襲われたとき、その船を守れなくていいのか」と安倍首相は熱弁します。
公明党も「この例に絞るなら集団的自衛権を認められる」と、早い段階で飛びつきました。
まずは、例えば朝鮮半島有事の場合の現実的なシミュレーションをしてみましょう。
政府としては、周辺事態に至る情勢緊迫段階で、情報を提供し、在韓邦人の待避を促し、それに取り組むことになるでしょう。
在韓日本大使館や領事館はそのためにあります。現在外務省は、渡航先の諸国の治安状況などを観察して、渡航自粛勧告などを日常的に発しています。有事に至る緊迫した情勢は、これよりもはるかに刻々として情報収集・報道・勧告が予想されます。
退避の問題は、この段階でほとんどは解決するでしょう。
そしていよいよ周辺事態が始まったとすれば、日韓両国政府は予め外交ルートで協議し、韓国政府の協力で安全に待避できるようにすることになるでしょう。その場合の輸送手段としては、当然民間船舶や民間航空機を使用できる状態である限りそれを使用するでしょう。いきなり米軍や自衛隊の出番にはならないでしょう。
民間航空機の場合、国際民間航空条約でその安全が保障されており、民間船舶に対する攻撃は国際法で禁止されています。
そんなことは、有事に際してはあてにならないという心配ももっともですが、軍用機や軍艦よりは遙かに安全です。
日米防衛協力のための指針(いわゆる「ガイドライン」1997年)で、「周辺事態での非戦闘員を待避させるための活動」として、周辺事態での在外邦人避難についての日米間での取り決めは、「日本国民又は米国国民である非戦闘員を第三国から安全な地域に待避させる必要が生じる場合には、日米両国政府は、自国の国民の待避及び現地当局との関係については各々が責任を有する。」とされています。
つまり、在韓邦人の避難は第一義的には日本政府の責任として行うこととされているのです。
仮に米艦や米軍航空機へ待避する邦人が乗っているとしても、そこには米国人も含まれているでしょうから、その防護は米国がこれをするでしょう。
この様な事例で米国艦船や航空機を使用する場合、集団的自衛権行使の必要性などないことは明らかです。
憲法の話⑦ 集団的自衛権を考える⑥
安倍内閣が、2014年7月1日、憲法解釈を集団的自衛権の行使が容認されるという解釈に変更するという閣議決定をするにあたって、この憲法解釈の変更を正当化するために挙げた15の事例の検討をこのシリーズで始めたところですが、今回は、「イスラム国」の日本人殺害事件について触れたいと思います。
後藤さん、湯川さんという2人の日本人を拉致したことも、両氏を人質にして身代金や拘束されている仲間の解放を要求したことも、要求が容れられないことを理由に2人を殺害したことも、不法不当の極みで、実にむごたらしい事件でした。
今後類似の事案や新たなテロ行為をどう防止するかの検討は、喫緊の課題です。
しかし、この事件を利用して、武力行使への途を開こうとすることは、絶対に許してはなりません。
両氏が拉致されたのは、昨年のことで、私たちに知らされてはいないものの、水面下での交渉がなかったわけではないと信じたいところですが、急転直下、公開の場で2億ドルの要求がなされるに至ったのは、安倍首相の中東訪問がきっかけとなっていることは、明らかです。
あろうことか安倍首相は、本来人道支援のはずのものを、イスラム国と戦っている諸国への支援とぶち上げたのです。
公開での身代金要求の後も、安倍首相は、「テロには屈しない」と威勢のいい言葉を叫ぶばかりで、2人の殺戮後も、「罪を償わせる」「今後日本人には指一本触れさせない」と気炎を上げ続けました。
世界最強の軍事力を誇るアメリカでさえ、武力によって国民をテロから守ることができないのに、なんと勇ましい「空元気」でしょうか。
よく知られているとおり、古いイスラムの教えでは、「目には目を」「歯には歯を」とされており、「罪を償わせる」という言葉は、仕返しとして相手方を殺すと宣言していると解釈されかねません。
「日本人には指一本ふれさせない」というのは、一体何をするつもりなのでしょうか?
1月25日のNHK番組で、安倍首相は、「このように海外で邦人が危害に遭ったとき、自衛隊が救出できるための法整備をしっかりする」と答弁しました。
これ自体とんでもないことですが、集団的自衛権の発想から、「危害に遭ったとき」というのが、「危害に遭う危険」を理由に「同盟国」への攻撃に対して武力で支援するという方向へと向かうことは明らかです。
外国に在留する邦人の救護というお題目での武力行使が、泥沼の日中戦争への道を開いたのは、半世紀少し前のことでした。
「イスラム国」への挑発を続け、日本人を見殺しにし、その死を海外派兵への口実にする、私たちの国は、なんという首相を持ったのでしょうか。
海外のメディからも、今回の事件を政争に利用するなという指摘がなされています。
海外派兵のための法整備への着手が現実の日程に上ろうとしています。
私たちの理性と理想を示すべきときです。
憲法の話⑧ 司法の独立を考える①
今回は、集団的自衛権から少し離れます。
集団的自衛権を閣議決定によって認める解釈を強行したのは、内容はもちろんですが、その手段も憲法違反です。
今回は、もうひとつの憲法無視の話題です。
原発再稼働の停止を求める福井地裁の仮処分決定は、強固な原発ムラの一角に風穴を開ける、久々の痛快事でした。
ところが、安倍内閣の官房長官は、記者会見において、第三者機関の検討した新基準に基づき、「粛々と」再稼働を進めてい くと言ってのけました。
「第三者機関」と言えば、司法権こそ、憲法が設けた最大の「第三者機関」です。
行政を代表するスポークスマンが、堂々と司法判断を無視する旨言明したのですから、日本は、近代的民主主義国家ではないことを、海外に向けて発信したことになります。
裁判は、民々の紛争を法律を適用することによって、解決を図ることを本意としますが、民と官の間の問題も同じです。
これを、「国家行為の裁判的統制」と言います。
国会議員は選挙で選ばれ、内閣総理大臣は国会で選任されます。選挙制度をはじめ、色々な問題はあるものの、国民の意思に立脚するシステムとなっています。
これに対して裁判官は、司法試験という国家試験で合格して、その身分を取得します。
最高裁判所裁判官の国民審査という制度はありますが、基本的には、裁判官の選任は国民の意思に基づく担保は、制度的に欠けています。
では何故、国民の意思によって選任された機関の行為を、国民の意思によって選任されたわけではない裁判官が統制できるのでしょうか?
それは、民主主義が多数決によらざるを得ないということに起因します。
多数決は、往々にして、多数者の利益によって少数者が犠牲にされるという危険をはらんでいます。
世界の多民族国家には、多数の民族によって少数民族が抑圧され、それが原因で紛争になっている例は、イヤというほどあります。
原発問題も、地方住民の健康や環境を危険にさらすことによって、大都会が電力の恩恵を享受しているという現象が顕著です。
多数者の利益のために少数者が犠牲にされることのないようにするため、憲法は二つの手段を用意しました。
その一つは、「憲法の最高法規性」です。
多数者の決定によって犯されてはならない基本的人権を憲法に掲げ、憲法に違反する法令は無効であるとすることによって、少数者の最低限の権利を護るのです。
そしてもう一つが、「国家行為の裁判的統制」です。
「裁判的統制」は、法令の解釈適用によってなされるものですから、これを熟知していることは必要ですが、多数者の意思によって選任された人にこれをさせる必要はありません。
むしろ逆に、多数者の意思から独立していることこそが重要です。
そこで、憲法は、司法権の独立を保障しているのです。
「権力分立」は、平和主義・国民主権と並ぶ、憲法の三大柱のひとつです。
官房長官は、これを無視するということを堂々と言明したのです。
原発問題は、憲法問題でもあります。
憲法の話⑨ 安全保障法制という名の戦争法制①
安倍首相は、2015年4月29日、アメリカ議会で演説し、対米軍事協力の法制を、秋までに仕上げると約束しました。未だ国会にも提案していないものを、です。この、国会無視の安請け合いは、それ自体が憲法違反として強く批判されなくてはなりませんが、ここでは、内容を取り上げます。
5月15日、安倍内閣は、「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律(平和安全整備法)」と「国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律(国際支援法)」という法案を国会に提出しました。
これはもはや、「集団的自衛権」をも超えた戦争法制で、「憲法の話」シリーズでも、「集団的自衛権を考える」というテーマとは別の表題を立てた次第です。
あまりにも矢継ぎ早に憲法無視の政策と政治行動がとられるため、じっくりとシリーズで問題を掘り下げることもままならず、困ったものです。
愚痴はさておき、この戦争法制が憲法違反であることは、国会の場で、アッサリと結論がついてしまいました。
6月4日、国会に招致された憲法学者3人が、口をそろえて、この法制が憲法に違反すると証言したのです。それも、与党推薦の学者までもが。
当たり前と言えば当たり前のことですが。
慌てた菅官房長官は、「違憲ではないという著名な学者もたくさんいる」などと発言しましたが、「それは誰のことですか」「名前を挙げて下さいよ」と、ツッコミを入れたくなります。
弁護士団体が調査したところでは、違憲としてこの法案に反対を表明した憲法学者だけでも189人、これに対して合憲派は3~4人と、勝負になりません。
ついには、6月5日、高村正彦自民党副総裁は、「憲法学者はどうしても憲法の字面にこだわりすぎる」と文句を言う始末。条文を無視した法律論などはあり得ないわけで、与党は憲法の条文を無視していることを認めてしまいました。
同じ日、中谷防衛大臣に至っては、憲法の解釈を法案に合わせるべきと言い出しました。憲法が法律に優位し、憲法に反する法律は無効であるという常識すら持ち合わせていないわけで、これまた憲法違反を自認してしまったのです。
憎悪の対象でしかない憲法については、勉強もなにもしていないのでしょう。
こんな人たちが安全保障を論じ、改憲を主張しているのです。
憲法論としては、違憲であると勝負はついていると書きましたが、政治は別です。
憲法を護る意思など全くない、違憲の総合商社のごとき安倍内閣は、数と力で法案成立をゴリ押ししようとしています。
平和を求める力をあわせて、廃案に持っていく強力な運動を展開しなければなりません。
憲法12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」としていますが、今こそそのときです。
時間はあまり残されていないかもしれないのです。
憲法の話⑩ 安全保障法制という名の戦争法制②
今回の安保法案が疑問の余地なく憲法違反であることは、前回申し上げましたが、今回もその続き。
そもそも昨年、集団的自衛権の行使を憲法上許されないものとしていたこれまでの政府解釈を変更して、これを是認することとしたこと自体が、その内容はもちろん、憲法改正手続を経ずに閣議決定という方法で集団的自衛権行使を認めることしようという手段も憲法無視ですが、これに関連して出てきたのが「法的安定性」問題です。
法律というのは、それを前提に国民生活や様々な権利義務関係が構成されているから、制度を変えるのは、余程の必要性と合理性がある場合に限るべく、慎重に対処しなければなりません。それが「法的安定性」。
閣議決定という手段での突然の解釈改憲は、法的安定性を害するという批判もあるところ、安倍内閣のブレーンである礒崎陽輔首相補佐官が、今回の安保法案について、「法的安定性は関係ない」と発言、法案が法的安定性に反すること、それにもかかわらず強行されていることを認めてしまったのです。
安保法案の行き着く先に徴兵制が待っているのではないかという疑問に対して、安倍首相は胸をはって、徴兵制は「意に反する苦役」を禁じた憲法18条に反するから、あり得ないと答弁しました。
しかし、徴兵制と憲法18条の関係については、国防は名誉ある崇高なものであり、徴兵制を採用している近代国家は多い、という理由で憲法違反ではないという説もありますから、安心できません。
まして、集団的自衛権についての解釈変更を強行した人が、憲法に違反するからあり得ないと言っても、これほど説得力の無い主張は近来まれと言っていいでしょう、
憲法以前の問題なのが、自民党武藤貴也議員の発言です。
若い人たちが大勢、安保法案反対に立ち上がっているのに対して、「だって戦争行きたくないじゃんという自己中心、極端な利己的考え」と非難したのです。
戦争に行きたくない、殺すのも殺されるのも真っ平というのは、人間として極めて自然な気持ちです。人間性の根幹と言っていいでしょう。
それを否定するのは、人間性の否定です。
安倍首相は、その著書の中で、日本の青年が血を流すことによって、初めて日本はアメリカと対等に付き合える旨書いたことがあります。
戦争というものに対するこの感性、この考え方、慄然とします。
憲法前文の「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることにないようにする」との文章を噛み締める必要があります。
政府がかくも憲法を憎悪し、これを無視しようとしている昨今の状況を見ると、つくづく憲法が国民を護っていることが実感されます。
だからこそ、かつて憲法改正手続を改正して、改憲をしやすくしようという試みがなされたことが思い起こされます。
憲法98条1項は、「この憲法は,国の最高法規であって,その条規に反する法律,命令,詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は,その効力を有しない」と定めています。
憲法99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と定めています。
閣議ごとに、この条項の読み合わせることを義務付ける法律が必要かも知れません。
そう言えば、現在の内閣は、民意の反映しない小選挙区制、それも定数配分が憲法違反と裁判所から判決された選挙で生まれた内閣です。
憲法の話⑪ 国民主権①安全保障法賛成議員の落選運動
「安全保障法案」の違憲性について、安倍内閣が挙げた事例に対する検討をしようとしていたものの、次々に憲法無視の言動が明るみに出、そちらに記事の主軸を移しましたが、ろくな国会審議もないまま、強行採決され、この点につての検討のいとまもありませんでした。
もっとも、国会論戦を通じて、法案の最大のアピールポイントだった日本国民を救護する米国艦船の援護の問題も、ホルムズ海峡の機雷封鎖への対処の問題も、適切でないことが明らかになって、事実上撤回されましたので、事例検討の意味もなくなってしまいました。
法案は成立しましたが、戦争防止の戦いは、これからも続きます。
その点で、忘れてはならないことが、とりあえず2つあります。
そのひとつは、憲法学者のほとんどが同法が違憲であるとの見解を示したこと、これに対して政府与党は、「憲法学者よりも自分の方がはるかに安全保障について考えている」「学者は条文の文言にこだわり過ぎる」「法的安定性は関係ない」などと、あからさまに憲法と憲法研究の意義を無視する姿勢を示したことです。
長年憲法の研究に従事して来た学者方の怒りはいかほどかと思います。
研究者による講師出前の運動も始まっています。
これからの運動に、専門家との強い連携をともなった。強力な展開が期待されます。
もっと重大なのは、政府与党によって、国民の意思を無視することが公言されたことです。
強行採決自体が、国民の意思の無視として許しがたいものですが、今回の特徴的なことは、安倍首相が、法案について国民の理解を得られていないことを認めながら、そのうえでなされた強行採決だった、ということです。
その経過においては、「連休をはさめば国民は忘れる」というような発言も政府幹部からありました。
法案の内容が明らかになるにつれて、日をおって若者を中心とする反対運動が盛り上がって行きましたが、これに対して、選挙で安倍内閣が支持されたのだから、法案反対デモには意味がない、という発言が、一部政治家や評論家からありました。
こんな国民を馬鹿にした態度は、絶対に忘れてはなりません。決して許してはなりません。
法案反対運動を盛り上げた若者たちは、法案成立に気落ちするどころか、次回の選挙で、法案に賛成した議員を落選させる取り組みに入ることが表明されています。
この国の主権者は、国民です。
主権者の意思をないがしろにし、これを蔑むような政治家には、十分なしっぺ返しをしなければなりません。
次回は、この「落選運動」についてご紹介したいと思います。