森田先生と行く戦跡ウォーク(第7回)~大阪市内南部地域~

南海天下茶屋駅集合(13:30)

《訪問1》 「大阪天下茶屋俘虜収容所」(天下茶屋駅前)
1905年、日露戦争」により捕虜となったロシア兵士の収容所(下士官と兵卒6062名)もとは1904年陸軍予備病院天下茶屋分院であった。のち、「浜寺収容所天下茶屋分所に改称され、さらにその後俘虜はすべて浜寺に移送されて、天下茶屋収容所はもとの陸軍予備病院分院となった。収容所としての使用期間は約2カ月であった。

《訪問2》 「聖天山公園内『紀元二千六白年』碑と日の丸掲揚塔」(阿倍野区松虫通3-2-2 )
1940年(昭和15)、1931年から始まった15年戦争(満州事変からアジア太平洋戦争の総称)も10年が経過し、中国を容易に征服できると非科学的に考えていた当時の政府が、国民の厭戦気分を払拭するため、神話(非科学的)を利用した「皇国史観」により、初代神武天皇が即位した年(BC.660 年考古学上は縄文晩期)から数えて二千六百年になる
1940年に、盛大に皇紀二千六百年の記念祝典が催された。この年の1月、『古事記及日本書紀研究』など実証学の歴史学者津田左右吉氏(早稲田大学教授)の東京帝国大学の講師に就任する事態に対応して右翼からの攻撃に呼応して東京地検が津田氏の著書の発禁処分、出版元の岩波書店社長岩波茂雄氏も弾圧するといういわゆる「津田左右吉事件」が発生、3月15日から予定されていた「東京万国博覧会」は中止、7月には「七・七ぜいたく禁止令」、8月国民精神総動員本部は「贅沢は敵だ」キャンペーンを全国に。“ぜいたく監視隊”が銀座などに出動。9月「日独伊三国同盟」が結成され、9月21日から10月6日予定の「東京オリンピック」は中止。こうした状況のなかで11月5日から20日まで全国で空前の大セレモニーが展開された。

《訪問3》 「正圓寺『英霊遥拝所』」(阿倍野区松虫通3-2-32)
平安時代に開基された由緒ある真言宗のお寺。「英霊」とは、もともと「優れた霊魂」という意味であったものが、明治以降「国家のために殉難した人の霊」という意味で、愛国心発揚の表現に使われてきた。

 

 

《訪問4》 「天神の森天満宮『在郷軍人会・国防婦人会奉納の燈篭』」(西成区岸里東2-3-19)
1940年11月15日建立の「燈篭」、「紀元二千六百年」記念の一環でつくられたもの。大阪市内でこの時期に作られた記念石造物で現在確認できるのは48か所に及びます。
阪堺軌道線「天下茶屋停留所」・・・「安立町停留所」

《訪問5》 霰松原公園「日清・日露・アジア太平洋戦争の記念碑」(住之江区安立2丁目11)
安立町役場の跡地だった霰松原公園の入口に4基の石碑が並んで立っています。①「明治二十七八年(日清戦争)戦役従軍者記念碑」②「日露戦役従軍者記念碑」③「忠魂碑」④「昭和戦役英霊の碑」です。①は1897年(明治30年)5月に建立。大阪市内では唯一の日清戦争の記念碑です。裏面に安立町出身の陸軍軍人13名の名前が刻まれています。②は1906年4月10日に建立。碑の右面に13名の安立町出身の軍人名前が刻まれています。これら2基は宗教色を帯びず、出征した地元の兵士たちの名前を記し、記憶にとどめようとしたもののようです。それに対して、「忠魂之碑」は、天皇のために忠義を尽くした「神霊」として顕彰する碑です。建立者は在郷軍人会安立分会です。裏面に戦病死した4名の名前が刻まれています。この「忠魂之碑」の題字の下に、1951年から63年まで大阪市長であった中井光次の揮毫による「至尊」の字の青銅製のレリーフがはめこまれています。
これは、米軍占領下の時代はいったん撤去されていたものが、再建されるにあたって付け加えられたものと推測されます。④は1953年9月建立で、大阪府知事赤間文三が題字を書いています。

《訪問6》 墨江小学校内「忠魂碑」(住吉区墨江2-3-46)
小学校の敷地内に「忠魂碑」が立っています。1940年、帝国在郷軍人會墨江分會が主催したものです。1940年の紀元二千六百年記念で造立された記念物(大阪市内現存48か所)で多くは神社に30か所、教育施設は、この墨江小学校と大阪赤十字看
護専門学校校庭と大阪教育大学正門前の3か所です。

当日は、参加者18名で初参加の方は11名でした。中にはフェイスブックで情報を知り、横浜から来阪されて参加された方もおられました。次回はコロナも少しは落ち着くことを期待して秋に計画したいと思います。

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