機銃掃射の弾痕の残る北野高校から峠三吉顕彰碑へ 第2回ツアーのコース

機銃掃射の弾痕の残る北野高校から峠三吉顕彰碑へ 第2回ツアーのコース

旧制北野中学校本館西壁の機銃掃射弾痕(淀川区新北野)→豊中生まれの原爆詩人・峠三吉顕彰詩碑(豊中市岡町北)→十二宮神社境内防空壕跡(阪急石橋)(旧海軍魚雷格納庫跡(阪急池田)

DSCN2873.jpg 第2回目となる今回は、阪急十三駅に集合し、北野高校まで徒歩で移動、北野高校では、教頭先生が応対、銘板の設置場所まで案内してもらいました。地元の歴史に詳しい、参加者のIさんが米軍の機銃掃射で犠牲になった生徒を悼んで建てられた句碑について詳しく説明。(別紙参照)銘板の汚れを拭いて清掃、中川代表の挨拶と参加者の自己紹介の後、次の峠三吉顕彰碑へと移動しました。
峠三吉の詩碑は、豊中市の岡町図書館正面玄関前に設置されており、日本語と英語で「にんげんをかえせ」の詩文が書かれています。詩文の傍には、1995年10月15日に非核平和宣言都市・豊中市として建立された戦後50年・被爆50年「峠 三吉」顕彰詩碑があります。

峠三吉詩碑の日本語文(表面)と英語文(裏面)
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海軍魚雷保管庫あと

 その後、阪急池田駅へ移動、バスで十数分の余野川沿いにある東山で下車、15分くらい歩くと、旧海軍魚雷保管庫跡があった場所に到着です。しかし、その場所は、人が出入りしたり崩れたりすると危険だからという理由で、すでにコンクリートで塞がれており、周りを見ても立て看板もなく、そこに魚雷の保管庫があったことなど全くわかりません。
image_0004.png地元の人の話を総合すると、明治時代から磨き砂を採取するために採掘した穴が相当長いトンネルとなっていたので、軍が戦争末期に手を加え、魚雷貯蔵に使ったとのことです。

すぐ横に50年近く住んでおられるHさんは、「20年ほど前に、土砂崩落が激しく、危険な状態があったので国・府で全部塞いでしまった」。と語っておられました。
image_0005.png  旧陸海軍関係資料によれば、「池田市東山横穴」に「魚雷105、実用頭部110、爆発弾119、信管134、伝爆薬143、火管540」などとなっている。海軍第52魚雷調整班によって細河国民学校(現細河小学校)で、調整や整備が行われていた。
 なぜこんなところに海軍か。伊丹飛行場から発進する海軍攻撃機に搭載する魚雷として装着するため。戦争末期には、飛行場周辺の軍事施設に対する爆撃や空襲が頻繁となったため、あまり遠くないが、少し離れた五月山山麓に施設を移したと思われる。

防空壕跡

image_0006.png魚雷保管庫跡を後にして、バス停までの道を花や植木を見学しながらブラブラし、会員が作ったカップケーキをいただきながら暫し休憩、その後バスで池田に戻り、そこからタクシーに分乗して、最後の見学地の十二宮神社境内へと向かいました。ここには、防空壕跡があり、銘板が設置されていました。午後5時、予定の行動を終え、解散しました。
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今回の銘板めぐりは17名の参加がありました。
次回は茨木市の「大阪警備府軍需部安威倉庫跡地」や高槻市の「タチソ地下壕跡」をめぐる予定で、秋に計画されます。

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