第4回戦争の傷あと銘板めぐり&清掃ツアー
第4回戦争の傷あと銘板めぐり&清掃ツアー
第4回ツアーのコース
枚方市旧陸軍火薬庫土塁と( 通称・禁野火薬庫)香里製造所煙突
5月19日、当会主催の銘板めぐりに参加しました。目的地は枚方市旧陸軍火薬庫土塁と(通称・禁野火薬庫)香里製造所煙突。
1896年、大村益次郎の構想による火薬庫造営、以後枚方は軍事工場の町となる。
1909年大規模爆発、1939年大規模爆発、1945年終戦、1950年
朝鮮戦争
1952年、小松製作所に払い下げにより砲弾製造再開、朝鮮戦争による特需
1909年1回目の事故は自然発火によるとされ多くの人々が犠牲になりました。1939年2回目の事故は、人為によるとされています。爆発が4時間、29回繰り返されたそうです。
この経験から、枚方市は1952年の政府から小松製作所への払い下げで再び砲弾製造を再開しようとしましたが、兵器製造反対の市民運動と火薬工場反対を枚方市議会が決議しました。1953年当時、朝鮮戦争による特需で日本経済が潤ったと聞いていますが、その死の恩恵にあずからない、拒否した枚方市は歴史と経験に学んだ市民と思いました。
歴史の風化の中で、地形を利用した軍事施設は、今は住宅地となり慰霊碑は心ある人々の手で守られていました。 T.H