ウズベキスタンの旅④
ウズベキスタンの旅④
抑留者が残したもの
敗戦を迎えた1945年、サハリンの地では日本兵は、敗戦を知らされることなくソ連軍とのし烈な戦闘を強いられた。まさに日本の軍部と政府の手によって「棄民・棄兵」が行われたのだ。
実はウズベキスタンでも同様に「棄民・棄兵」が行われていた。関東軍司令部に裏切られた日本兵は、ソ連兵が「トウキョウ・ダモイ」(東京へ帰還だ)というので「内地に戻れる」と思った。しかし、敗戦後の約2カ月の間に、シベリア、中央アジア、ヨーロッパロシア、極北・外モンゴルなど、約2000の収容所に移送されることとなる。これが一般的に言われるシベリア抑留だ。
日本の関東軍参謀本部が、「日本の捕虜をソ連軍の経営にお使いください」という申し出をしていたことで、この「抑留」が生まれたという。ウズベキスタンにも約2万5千人が送られ、その痕跡はナヴォイ劇場(写真あり)や数多くのダムに残っている。そのことを見聞するのがこの旅の一つの目的であった。
首都タシケント市にある1400席を有する煉瓦作り3階建てのビザンチン風建築のオペラハウスが「アリシェル・ナヴォイ劇場」だ。 建物内部にはいくつかの広間やパーティールームがあり、壁装飾は中央アジアの各地域の特色の文様を生かすよう工夫されている。このオペラハウス建設に抑留者が携わった。オペラハウスの建設開始後、第二次世界大戦に突入。そのため、土台と一部の壁、柱などがつくられた状態で工事はストップした。大戦後、ロシア革命30周年に間に合わせるべく、建築に適した工兵457人の日本兵(抑留者)が強制的に集められ工事にあたったという。捕虜でかつ抑留を強いられ、中央アジアの最果ての国に送り込まれた日本人はドイツ兵捕虜があきれ返るほど勤勉に働いたという。
劇場裏手の記念プレートには以前はウズベク語とロシア語、英語で「日本人捕虜が建てたものである」と説明されていたが、ソ連からの独立後、大統領に就任したカリモフ大統領は「ウズベクは日本と戦争をしたことがないし、ウズベクが日本人を捕虜にしたこともない」と指摘し、「捕虜」と使うのはふさわしくないと96年に新たなプレートに作り変えられた。「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」とウズベク語、日本語、英語、ロシア語の順に刻まれている。
日本人墓地や「日本人抑留者追悼碑」(ヤッカサライ墓地内)の近くにジャリル・スルタノフ氏を訪ねた。彼は、ナヴォイ劇場の建設秘話やそれ以外にも水力発電所や工場、学校建設の話など、聞くに及んで勤勉な日本人抑留者の話などを資料として残そうと、91年、国の独立を機に、日本人ゆかりの収容所や墓地などの資料や証言を収集。それらを98年、私財を投じて「日本人抑留者記念館」を開館し、運営を続けてきた。
館内には、抑留当時の写真や資料のみならず、抑留者が現地の人に贈った手作りのゆりかご(写真あり)や肖像画など、抑留された日本人と当時のウズベク市民の交流を物語る貴重な品々が展示されている。お茶まで用意いただき、スルタノフさんの大歓迎に参加者の重い気持ちが少し救われたような気がした。