ウズベキスタンへの旅③

ウズベキスタンへの旅③

タシケント郊外のコリアン合同農場を訪れた。そこの5 代目のリーダー、キム・ビョンファさんを顕彰する博物館を訪問のためだ。

スターリン時代の1937年、極東から中央アジアへ約17万人の強制移住が行われ、着の身着のままで貨物列車に追いたてられたコリョ人(朝鮮人)たちは食料もほとんどない中、5千数百キロを移動。餓死・凍死したコリョ人も多数いたという。

キム・ビョンファさんもその一人である。彼らは強制移動させられたにもかかわらず、勤勉で、多くの労働英雄を生みだすほどだった。また農場から研究者や弁護士、医者も多く輩出した。

この合同農場は37年高麗人が20余名でつくった「北極星農場」がベースである。入植地は耕作には不向きな荒野、湿原で、到着した冬はバラックで生活し、穀物もなく野草で飢えをしのいだという。キムさんは40年、農場代表に選出され、沼地を開墾し農場を拡大。麦、綿花、稲の一大生産地とした。第二次世界大戦には対独戦争で大きく貢献した。その後多民族の農場へと膨らむなかで生産性はソ連有数でずば抜けて高かったという。80年には人口は1万人近くに膨れ上ったという。キムさん自身はソ連の労働英雄の称号を得る。74年5月7日にキムさんは亡くなったが、農場名に名前が残り、博物館が…。

博物館を案内してくれた女性は、キムさんの遠縁にあたるという。ウズベキスタンのコリョ人には今や珍しく朝鮮語が話せた。しかし込み入った話になるとロシア語に。どうもウズベク語は不得意の様だ。この農場出身者で研究者になった者も少なくないが、ソ連の崩壊、ウズベキスタン独立によってウズベク語が公用語となり、ロシア語しか話せない研究者が大学を追われる事態が生まれたという。言葉は大きな課題だと考えさせられる。

博物館前のキムさんの銅像は咲き誇る槿(むくげ/朝鮮の国花)の花を見守る。

「キムさん!槿の花の向こうには極東の景色が見えていますか」。

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