ウズベキスタンへの旅②
ウズベキスタンへの旅②
ウズベキスタンの旅2日目、首都タシケントから、シルクロードの要地サマルカンドへの鉄道の旅から始まる。ヨーロッパ版「地球の歩き方」に写真が掲載されているというイケメン客室乗務員のお菓子とお茶のサービスがあり、航空機並みか?車両はスペイン製の新幹線だ(ちょっと韓国のKTX<フランス製>に似ている)。岩砂漠と短い草しか生えないステップを縫って走ること約2時間、列車はサマルカンド駅滑り込んだ。
シルクロードの要衝として栄えたサマルカンドはオアシスに作られた古代都市がその起源だ。13世紀にはモンゴル帝国に滅ぼされるが、14世紀末に登場した一人の英雄ティムールによって、町は再び帝都として復活を遂げた。現在はサマルカンドブルーと呼ばれる青を基調としたイスラム建築が並ぶ「青の都」として一躍注目されるようになった。
まず訪れたのはグル・アミール廟。ティムールとその家族が眠る御廟である。廟内の黄金とブルーのタイルの美しさに圧倒される。
スケールの大きさに驚いたのはレギスタン広場。町の中心に位置し、広場を囲むように3棟のマドラサ(神学校)が配され、ターコイズブルーと複雑な幾何学文様が織りなす壮麗なモザイク壁画や天井ドーム、ミナレットなどは実に壮観だ。いつまで見ていても飽きることがない。ユネスコの世界遺産に認定されているが、商魂たくましい土産物屋が、かつての神学校の小教室に店を開いているのはいただけない。また中央アジア最大級ともいわれる「ビビ・ハ二ム・モスク」は、ティムールが王妃のために建設したモスクで、国中から著名な建築家を呼び集め、おびただしい数の労働者を雇ってわずか5年で完成させたといわれる。損傷が激しかったようだが、現在修復が進む。
今回の旅の大きな目的の一つ、スターリンの手によって極東エリアより強制移住させられたコリョ人と出会うこと。サマルカンドでは郊外と旧市街地の2つコリョ人の墓地に出向いた。サハリンの韓人墓地と同様に肖像写真が墓石に刻み込まれた比較的新しい墓石から漢字で名前が彫られた墓石までがそこには並んでいた。ソ連時代、沿海州から40日をかけて遠くの中央アジアの地へ送られ、厳しい環境の中で開拓を…。ウズベキスタンの民として馴染んできた人々は、悲しみを心の奥に封じ込めながらたくましく生き抜いた。そして、大多数は故郷に帰ることなくウズベキスタンの土へと帰っていった。その強制移住の重大な原因が日本の植民地支配と侵略にあったことを私たちは忘れてはならない。
(イイダ記)