第8回戦争の傷あと銘板めぐり&清掃ツアー
第8回戦争の傷あと銘板めぐり&清掃ツアー
第8回ツアーコース
~多奈川方面の潜水艦建造跡地の戦跡と加太砲台跡を巡る~
潜水艦建造のドック跡→謎のトンネル→朝鮮人宿舎跡→正教寺→加太砲台跡
5月31日(土)、多奈川方面の潜水艦建造跡地とその周辺を巡りました。岬町9条の会の皆さん大変お世話になりました。
参加者の感想を紹介します。
「戦争の傷あと、銘板めぐり&清掃ツアー」という不思議な企画名に惹かれて、思わず参加申込みをしたというのが実情で、炎天下でのフィールドワークで、現地の岬町で平和運動されている方のご協力でこの戦跡めぐりを体験できたと思う。現地の方のご苦労に改めて感謝したい。
いろいろなところを訪問したが、それぞれの印象深く、そこに足を運ばねばリアルに実感できないという臨場感もさることながら、ただ観るだけではわからないことも多いので現地の説明などを聞くに連れ、かつてここに軍需工場というのか日本海軍の潜水艦を製造していたドックがあったこと、そのために多数の囚人や強制労働によって従事させられ、またこの地で故郷の地を踏むことなく亡くなられた人々がいたことに思いを馳せることができた。
岬町の中の多奈川谷川(大字、小字?)の正教寺(浄土真宗本願寺派)には、強制労働にかかわった人の遺骨が納められていた。当時としては、法名(他宗では戒名)をつけて納骨されているということは、死者に対する差別をしなかった例として珍しいことだと聞いた。当時としては死者とは言え、朝鮮の人々を一般人と同列に扱わないこともままあったらしく現在の住職のお母さんにあたる方がその先々代の住職のとった行動について話してくれた。私たちのこの日の訪問のために前日までに随分がんばって調べてくれたと聞いた。かつては小学校で教職をされていたと聞いて、要点を押さえて報告されていた。これにも頭が下がる思いだ。
その後、かつての軍事基地を見渡せる場所に立ち、すっかり変わり果てた関西電力の発電所を見た。戦後すぐに、米軍により撮影されたという航空写真を現地の方に見せてもらったがとても詳しく、ここに潜水艦があるぞと言わんばかりにきれいにドックが映っている。それから戦時中に掘ったという「謎のトンネル」を見て、朝鮮人や囚人たちが暮らした宿舎跡の見学を行った。最後に由良要塞(淡路島、紀伊半島を間の海峡を守る砲台などを備えた軍事要塞)跡地で和歌山側の跡地を見学した。砲台の地下の弾薬でも入れたのだろうか煉瓦造りの頑丈な地下の基地跡を見た。ここには五〇〇〇メートルまでしか砲弾が届かない大砲が淡路島、紀伊半島の両側にあったらしく大阪空襲を行ったB29はこの海域を確かに通って高度一万メートルを悠然と飛行したらしい。参加者の誰かが「これでは勝てるわけがない」と漏らした。
これら戦争における無数の悲劇の背景には、「皇国日本」という異常な価値観、それ以外の文化を否定し、貶め、差別してきたという目を背けたくなるような教育政策がある。
またその戦前のとっくに葬られているはずの価値観を振り回す人たちが、総理大臣をやっていたり、市長をやったりしている。それで「教育改革」をやろうというのだ。
周辺の国々の国民から「やっぱりお前たちは反省していないのか」と言われても仕方がない状況だ。グローバル化だの国際社会に対する責任云々が言われながらも、自国の歴史の事実、少なくとも海外の多くの国から見た日本を客観的に知るということから目を背けている以上は、まともな外交が期待できない国と思われるのではないだろうか。今回改めて思ったことは、戦跡はかつての教育の異常を正直に伝えているということだ。
M.K
河内長野市会議員丹羽実さんのブログ「にわ実だより」から転載いたしました。
31日(土)非核の政府を求める大阪の会が主催する、第8回戦争の傷あと/銘板めぐりツアーに参加しました。
サブタイトル「多奈川方面の潜水艦建造跡地等の戦跡と加太砲台跡を巡る」です。
南海電鉄/本線 みさき公園駅集合、 なんば~みさき公園駅 790円 区間急行で約60分。 そこから乗用車5台で移動です。
上の写真は、昭和20年頃の多奈川・深日町の概略図です。
初めに正教寺というお寺で、多奈川・深日町あたりで潜水艦が建造されていた話とその時の朝鮮人労働者の遺骨13体中4体の分骨を見たりしました。
正教寺から見た今の岬町
潜水艦建造は、川崎造船(本社神戸市1939年川崎重工業と改称)は急増した海軍からの受注に対応するため、多奈川・深日地区の買収用地と埋立地に泉州工場を建設。買収に3年もかかっている。相当住民の抵抗があったようです。 泉州瓦の工場がたくさん有った。
泉州工場では中・小型潜水艦など28隻を建造した。
川崎重工業(株)の社史より抜粋/伊=大型潜水艦、呂=中型潜水艦、波=小型潜水艦。 泉州工場での建造分のみ。
この表を見ると、中型艦で8ヶ月、小型艦で5ヶ月くらいで建造しています。伊の大型艦は3隻とも建造しても工事中止など1隻も引き渡しされていません。終戦間際、1945年7月の造船所の空襲などで思うように建造できなかったようです。
ネットで調べると、例えば 潜水艦呂112は、1943年9月14日引き渡し、1945年4月25日沖縄南方で米上陸用輸送艦に攻撃され?沈没となっています。 結局1年と半年しか任務についていません。
呂112二等潜水艦の性能は、排水量525トン、全長60.9m、全幅6m、動力機関はディーゼル2基2軸、水上1000馬力、水中760馬力、速力水上 14ノット水中8ノット、燃料重油50トン、乗員38名、兵力25mm機銃1基2挺、魚雷発射管4門、52cm魚雷8本、安全潜行深度75m。
昭和22年当時のアメリカ軍が撮影した航空写真(白黒)を手に、工場跡地を説明してもらいました。 とても鮮明な航空写真です。 角にはKODAK(コダック)の英文字も見えます。
写真のように現在は、川崎重工泉州工場はなく関西電力多奈川火力発電所になっています。
南海電鉄多奈川線は、この工事に必要な資材搬入のため敷設されたものです。
造船所建造に当たって関連事業を請け負ったのは、飛島組・清水組・日産土木で作業員は大阪捕虜収容所多奈川分所のアメリカ兵、蘭印捕虜約600名、大阪刑務所の因人数百名、朝鮮からの強制連行者や自主的な労働者でした。
1945年7月25日、米第28機動部隊の艦載機10機からの爆撃を2回受け、34個の爆弾が投下される。死者28名、重傷者32名。 「岬町の歴史」より
その後、なぞのトンネルや朝鮮人宿舎跡などを見学しました。
地元、9条の会、正教寺さん、町会議員の中原さん 案内ありがとうございました。
「加太砲台跡」
加太砲台跡は、写真にあるように「由良要塞」の加太地区の9ヶ所、友ケ島6ヶ所、淡路島由良10ヶ所の中の1ヶ所です。 見学したのは、「休暇村紀州加太」に行く手前から徒歩10分の所にある「深山第一砲台」の(6門)跡地です。
6門の大砲の配置図が上の写真です。
石段を降りてゆくと、弾薬庫です。
今でも残っている弾薬庫。
内部は結構広いです。
深山第一砲台は、明治25年着工-明治32年完成し由良要塞の一つになる。
昭和20年の終戦まで使われていた。となっています。
確かに、淡路島の鳴門海峡と由良海峡・友ヶ島・加太の海峡を3つを押さえれば、太平洋側から瀬戸内海への船舶の進入を止められます。
しかし、艦載機からの空襲には何の役にもならなかったのが終戦間際の戦争でした。実際米軍のB29爆撃機は、上空1万mからやってきて、1000mくらい まで降下し目標に爆弾を落として行った。ゼロ式戦闘機などは、たぶん高度7000mくらいしか上昇できなかったと言われています。
実際の大砲は、ありませんが深山第一砲台には28cm榴弾砲が6門あったと書いています。
上の写真は、砲台横の壁ですが何やら直径10cmくらいの穴が空いています。
これは、地下にある弾薬庫と地上の砲台との連絡を取り合うための「伝声管」です。
「伝声管」て、何かご存知ですか
現在では、自衛隊の艦船に一部残っていると聞きますがほとんど使われなくなった連絡用インターホンの役目の管です。 実際には、マイクもスピーカーも電 気も必要としないインターホンです。 音の伝搬は、距離の2乗に比例して減衰するので、距離が2倍遠くなれば1/4になり、3倍遠くなると1/9に小さ くなります。 しかし 伝声管を使うと管のカーブや継ぎ目のデコボコで減衰するくらいですから、200~300mくらい声は届くようです。 戦艦の操 舵室から砲手の所くらいは伝声管で使えたそうです。
最 後に、口径28cmの榴弾砲はどんな大砲だったんどろうか? 良く聞く大砲でも105mmとか155mmの口径です。 280mmの口径の大砲。 射程距 離も20km以上でしょうか。直径30cmあまりの打ち上げ花火の尺玉を上げる発射筒ですかね? ネットで調べても写真がありませんでした。
しかし戦争は、ムダな物をたくさん作った。お金も材料も人手もたくさん使っていたんですね。 その究極は核兵器です。bomb
絶対に使ってはなりません、早く地球上からなくしましょう