戦争の傷あと銘板めぐり第2シリーズ 

ウォーク参加募集案内
戦跡ウォーク第4回

『大阪 戦争モノ語り~街かどの「戦跡」をたずねて』の著者
森田敏彦さんのガイドで訪れる

今も街かどに残る「八紘一宇」のスローガンー西区内の「戦跡」を訪ねる

 戦時体制を強化し行き詰まった日中戦争を打開するため、「天皇制国家」のイデオロギーにもとづく「皇紀二六〇〇年祭」が1940年に大々的にとりくまれました。今回のウオークは、「皇紀二六〇〇年」に関わる記念物を中心に、大阪市西区内にある戦没者碑や慰霊碑をたずねます。途中、地域にまつわる興味深い史跡にも寄り道します。日時・集合場所は以下の通りです。尚、小雨は実施します。

日 時: 12月16日(日)  午後1時集合  4時ごろ解散 

集合場所: 地下鉄阿波座駅中央線東南改札口2番出口を上がった三井住友銀行前 
コ ー ス: 阿波座駅→薩摩堀公園・「皇紀二六〇〇年」を記念して作られた「八紘一宇」塔
→あみだ池和光寺・3月大空襲の被災者を悼む地蔵尊や戦没者のための忠魂碑
など→土佐公園・戦没者を慰霊する平和の祈り像(他に土佐稲荷神社の三菱紋)
→竹林寺・空襲で焼死した松島遊郭の女性を弔う無縁墓(他に朝鮮通信使随行者
の墓)→茨住吉神社・空襲で焼け焦げた神木→九条東小学校・壁に設置された室
戸台風のレリーフ→九条南の路傍・「皇紀二六〇〇年」を記念して作られた「八
紘一宇」塔(地下鉄九条駅で解散予定)

参 加 費: 無料。(交通費は各自でお願いします)   

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戦跡ウォーク第3回

『大阪 戦争モノ語り~街かどの「戦跡」をたずねて』の著者
森田敏彦さんのガイドで訪れる

1945年3月大空襲、ミナミの地にその跡を歩く

 昨春より「戦跡ウォーク」を行っています。今回はその第3回目です、
1945年3月13・14日の空襲は大阪を襲った爆撃のなかでもっとも大きな被害をもたらし、ミナミは一面の焼け野原になりました。難波周辺から四ツ橋付近まで歩き、空襲直後の写真を見ながら、その撮影地の近くに立って当時の惨状に思いを馳せるウォークです。
 日時・集合場所は以下の通りです。尚、小雨は実施します。

日 時: 6月9日(土)  午後1時集合  4時ごろまで
集合場所: 難波高島屋前(御堂筋側の広場、彫像のあたりに)  
コ ー ス: 高島屋前→大乗坊(空襲で全焼) →旧大阪球場(専売公社たばこ工場) →千日前
(旧大劇) →法善寺(水掛け不動は残るが本堂焼失) →戎橋 →大丸 →アメリカ村
(心斎橋BIGSTEP) →四つ橋(旧電気科学館)→旧新町橋(西六平和塔)
参 加 費: 無料。(交通費は各自でお願いします)

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6月9日に実施した戦跡ウォーク第3回の感想記事です

コース:高島屋前→旧大阪球場(専売公社たばこ工場)→ 大乗坊(毘沙門天) →千日前(旧大劇) →法善寺(水掛け不動) →戎橋→大丸→西道頓堀→アメリカ村(心斎橋BIGSTEP) →四つ橋(旧電気科学館)→旧新町橋(西六平和塔)

 非核の会の戦跡ウォークは東淀川につづき二回目の参加です。案内は『大阪 戦争モノ語り』著者の森田敏彦さん。六月九日は快晴、暑い日でした。しかも外国人観光客がごったがえすナンバ界隈ですから、雑踏と店の喧騒が加わり暑さが倍増です。高島屋前に集合し、ミナミを歩き回り、戦火をくぐりぬけながらも今は無き電気科学館の四ツ橋で解散しました。建て替えの激しい地域ですから、東淀川のように戦争遺跡がまだどっかりと存在感をもっているとはいえません。でも、空襲前と空襲後のミナミ・千日前の写真を比べ、今の姿とも重ねながら、想像をめぐらす戦跡めぐりでした。
 全焼した大乗坊には、寺の前に一トン爆弾の錆びたシッポの部分がそのまま置かれています。説明板には、重要文化財第一号とあり、「えっ、国の重文?」と思いかけたが、正しくは、町内会の重文第一号でした。戦争の証人です。本堂は焼失しましたが水かけ不動が残った法善寺、鉄筋コンクリート三階建てだったため戦火をくぐりぬけた三津寺は、三津寺筋の地名にも名を残し、いまも風情ある景色となっています。三月一三、一四日の大空襲では、広いはずの御堂筋まで炎の川となったそうです。寒い三月、炎に追われた人々は道頓堀川に難を逃れました。今は外国人ばかりの戎橋やかに道楽あたりの風景と戦火に逃げまどった人の姿を重ね合わせて大空襲被害を偲びました。参加者は講師を含め一八人でした。

山上俊夫

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戦跡ウォーク第2回

『大阪 戦争モノ語り~街かどの「戦跡」をたずねて』の著者
森田敏彦先生のガイドで訪れる
〝国民を戦争に駆り立てる、戦争に抗う〟

 2010年から、府内12カ所の地域にある大阪府と各自治体が戦後50周年を記念して1995年に建てた「戦争の傷あと銘板」を中心に巡ってきましたが、その第2シリーズとして今年春より「戦跡ウォーク」を行っています。今回はその第2回目で、戦争を推進するための軍事施設や国民を戦争に駆り立てた記念物と、戦争反対を貫いた川柳作家鶴彬の碑を訪ねます。憲法9条をこわして日本を戦争国家にする危険がかつてなく強まっている今日の状況を考える糧にしたいと思います。日時・集合場所は以下の通りです。尚、小雨は実施します。

日 時: 12月2日(土)  午後1時半集合  4時ごろまで
集合場所: 大阪歴史博物館南側広場集合(最寄駅は地下鉄谷町四丁目)  解散は大阪城公園噴水前

コ ー ス: 第8連隊跡碑⇒第37連隊跡碑⇒大村益次郎顕彰碑⇒教育塔⇒大阪偕行社(明治紀年標)跡
⇒大阪城京橋口⇒中国製の狛犬⇒教育勅語碑⇒第4師団司令部跡⇒鶴彬の川柳碑

参 加 費: 無料。(交通費は各自でお願いします)

12月2日に実施した戦跡ウォーク第2回の感想記事です

 驚きの発見!大阪の戦争の傷跡巡りに参加しました。

                     弁護士 西   晃

12月2日(土)午後、快晴の大阪城公園。

 多くの市民・海外からの観光客で賑わう中、‘’大阪の戦争の傷跡巡り‘’に参加しました。
 普段、ランニング大会(大阪城公園ナイトラン)や練習等で何度となく訪れているこの公園。今回非核の政府を求める大阪の会が、戦跡巡りツアーを行うと聞いて、是非とも詳しく知りたいと思った次第です。

 総勢20名くらいの参加者だったと思います。案内は、元高校教諭で文学博士、「大阪戦争モノ語リ-街かどの『戦跡』をたずねて」(清風堂書店)の著作もある、森田敏彦さんでした。

 森田さんの説明をお聞きしながら、歩兵第37連隊兵営跡、大村益次郎殉難碑(現在の国立病院機構大阪医療センター南東角)、さらには、教育界の靖国神社ともいわれる「教育塔」、旧第4師団司令部庁舎後などを見て回りました。

 まさに驚きの連続・・でした。普段何度なくそこを走っている、その場所から僅か数メートルの地点に、かつての軍都・大阪の痕跡が今も歴然と残っている。観光客で賑わう公園のそのスポットだけ、人影もまばら、まるで時空間が切り取られたようなそんな場所がそこにありました。

 かつての軍事拠点「第4師団司令部」も、今は「MIRAIZA・OSAKA-JO」と名前を変え、とても綺麗なレストランになっていました。

 市民の穏やかな日常の憩いの場としての大阪城公園。その中に残る戦争の痕跡。それを決して忘れてはならない・・改めて平和への思いを強くしました。

 仕事の関係で最後まで残れず、反戦川柳作家、鶴彬の句碑を見ることができなかったのが残念でしたが、充実した半日を過ごすことができました。

今日も多くの市民、海外からの観光客で賑わう大阪城公園!
僕も何度となくランニングで走っていますが、
全く知らなかったことばかりでした。
普段走っているコースのすぐ側に、こんな碑があったなんて 😳
驚きの連続でした!
改めて、このあたりの場所が戦前、戦中の軍事拠点だったことを認識しました!

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 戦跡ウォークに参加して

羽曳野市 日下恭子

 大阪にどんな戦跡があるのか知りたいと思っていました。
 今回は大通りの街路樹が美しく紅葉した12月2日に戦争の傷あとめぐり第2回シリーズに『大阪戦争モノ語り~街かどの「戦跡」をたずねて』の著者・森田敏彦先生のガイドで参加者19名が訪れました。
 私が最初に驚いたのは、出発前にいただいた資料の中の地図でした。この地図は1931年より前の(大阪府庁が無い)おそらく大正期のものという森田先生の説明と、この地図を目測すると大阪城公園の約3倍くらいの広さが軍事施設ということを一目瞭然に見られたことでした。ともかく広い。この広さは歩いてみて、なおさら衝撃的でした。「軍都大阪」が地図上にわかりやすく迫ってきました。
今回のコースを①軍事施設②国民を戦争に駆り立てた記念物③戦争反対を貫いた人の3つの視点でみました。 
①軍事施設
◦第37聯隊・8聯隊・大阪偕行社・明治記念標・国防館・航行館・兵器補給廠の倉庫群は当然、現存していない。(戦友会建立の碑有り)
森田先生の解説と資料のプリントを見ながら自分なりのイメージを得る手がかりとすることになりました。
◦第4師団司令部(本丸付近にありました)
戦後アメリカ軍に接収され、1948年に返還されたのち大阪市警察本部から大阪府警察本部に、その後1960年から2001年までは大阪市立博物館に転用され、あとは休館していました。が、2017年の今年10月に「ミライザ大阪城」という名称でフレンチレストラン、飲食店、土産店などに様変わりし、地下は来年オープンの予定になっていました。商業ベースの喧騒の1階館内を歩き、文化施設としてなぜ維持しないのだろうと、とても残念に思いながら館内を出ました。
◦防空壕(大阪城の桜門東側の空堀に穴が2つあります)
 家庭一般の防空壕とは比べものにならない頑丈なもので軍用防空壕は地下壕となっています。
◦兵器補給廠のレンガづくりの塀と門柱(西の丸庭園入口の前あたりにありました)
「大阪城公園場内詰所」の看板を取り付け塀と門柱だけは今も使用されていました。
◦水管橋(本丸西側の空堀にありました)
石垣の内から堀を通る水道管は砲兵工廠でつくられ1895年に大阪市が最初に上水道を引いたときから使用され今でも現役でした。砲兵工廠の技術の高さを示しています。
◦ラジオ放送用柱
初めて見ました。スピーカーからラジオ放送が流され、当時の人々がそこから情報を取り囲んで得ていたであろうことが想像されました。
②国民を戦争に駆りたてた記念物
◦大村益次郎顕彰碑(上町筋と久宝寺町の大通り交差点の北西角地にありました)
人々にとって、どれほどのことを成しとげた人物なのかと思わせる顕彰碑の大きさでした。碑銘を中央に掲げ、右に全身のレリーフ左に碑文が刻まれ、下部には発起人・賛同者名が刻み込まれていました。大村益次郎は「軍都大阪」をもくろみ、近代的軍隊創設に奔走しました。天皇制政府の中央集権確立にともなう常備軍建設に貢献した役割を顕彰したものでした 。戦争に協力するように軍・官・財・言論界などの著名人がこぞって発起人・賛同者になっていました。おりしも1940年に大政翼賛会が発足され、翌年の1941年に碑が建立された同じ年に太平洋戦争が始まっています。
◦教育勅語の顕彰碑(本丸の日本庭園北側にありました)
1890年に発布された教育勅語の全文が刻まれ、満州事変の前年の1930年に帝国教育会の地方組織の大阪教育会が日を建立しました。軍国主義推進の教育勅語の顕彰碑でした。1992年に右翼団体による教育勅語の口語訳のパネルが建てられていました。民主的な解説板が建てられることが望まれています。
◦教育塔(南外堀の西の端にありました)
1936年竣工式が行われた教育塔の目的は、天皇制に忠節を尽くし国家に報いる教育の精神を明らかにするとされ、国民を戦争に向かわせるための働きをもったモニュメントであることが右側レリーフからもみてとれました。
③戦争反対を貫いた人
◦鶴彬句碑(豊国神社東側の大阪衛戍監獄跡地の一画にありました)
戦争へと進む時代に抗し、強靭な精神力で不屈の川柳を体現した鶴彬を顕彰した記念碑として2008年に鶴彬顕彰実行委員会が建てました。碑には「暁をいだいて闇にゐる蕾」が刻まれていました。
戦跡ウォークを終え、戦跡の検証の必要性を強く感じました。どうしてこれが現存しているのだろう、戦争に駆りたてたものをなぜ取りはずさないのだろう。戦前を引きずり、戦後がまだまだ終わっていないことなのだろうか、歴史の審判は?
 私は歴史年表を見直してみました。今年は大政奉還の1867年から150年、また大
政奉還から1945年の敗戦まで78年。日本は幾多の事件・事変をおこし、清国・ロシア・中国・韓国・台湾・東南アジア・太平洋などへと侵略のホコ先を向け、侵略戦争へと突き進みました。天皇制政府の軍事体制を確立し、国家の国民統制で軍国主義国家へとひた走りました。日本は自国の国民と対戦国の何の罪もない人々を戦争の惨禍にまきこみ、行きつくところまで行きました。日本は世界で唯一の被爆国となり無条件降伏の敗戦をむかえました。戦争を知らない世代に歴史の真実を伝え同じあやまちを二度と繰り返さないことを願わずにはいられませんでした。
 私は、帰宅後、戦跡を知るだけではなく「軍都大阪」をあぶり出さなければと思ってい
ましたが、今は、戦跡からより一層、何を引き出すかに広がり変わってきました。「これから何を引き出すか」を深く考えさせられた戦跡ウォークでした。

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1945年6月大空襲の跡をあるく戦跡ウォーク第1回

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『大阪 戦争モノ語り~街かどの「戦跡」をたずねて』の著者
森田敏彦先生のガイドで訪れる
1945年6月大空襲の跡をあるく戦跡ウォーク第1回

コースは
淡路駅→西淡路の高射砲陣地跡→日之出町共同墓地の戦死者戦災者慰霊碑
→崇禅寺の戦災犠牲者慰霊塔→柴島浄水場壁の弾痕→法華寺の空襲のあとを残す墓石群
→善教寺の戦災犠牲者慰霊塔→長柄橋の観音像と弾痕が残るコンクリート片

6月17日に実施した戦跡ウォーク第1回の感想記事です

 「戦争」と聞いて私たち10代では、恐らく今の日本とは関係なかったり、過去のことだと考える人の方が多数派だと思います。しかし、我々が暮らす町も過去に戦争を体験し、傷跡は今日に至るまで残っているのです。今回参加した戦跡ウォークでは、 そんな傷跡を何箇所か巡ることができました。「西淡路高射砲陣地」は、一見円盤のような異様な雰囲気の建造物ですが、戦時中は上部に高射砲が取り付けられていたそうです。今の景色では考えられません。柴島浄水場の弾痕は、ただの上部が壊れたコンクリートに見えますが、空襲によって破壊されたらしいのです。戦後70年以上経ちましたが、まだ「証拠」が誰にも見える所に残っているのには大きな意味があると思いました。これらの戦跡は、説明がなければ何がどうなってるのかさっぱり分かりません。説明があってこそ初めて理解できます。つまり、残っている戦跡をどうやって伝えていくのかが大切なのだと感じました。今回訪れたのは東淀川区でしたが、他の区や地域にも大なり小なり戦跡は残っているのではないでしょうか。戦争を知る世代が少なくなっていく中、直接の体験はしていなくとも、自分の目で確かめる機会を増やさなければなりません。そうすれば、「戦争」を見る目も変わるかも知れないのです。折角残っているんだから、最大限教育などに利用して貰いたいと思う限りです。

大阪平和委員会青年学生部・高校生  M

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ちょっと見る目が変わったかな?

6月17日、「非核の会」主催の大阪大空襲の跡を歩く第1回「戦跡ウォーク」に参加させていただいた。特段の関心があった訳でもないけれどたまたま私の住む東淀川地域が対象だったこともあり気楽な思いで足を運んだ。
淡路から天六・長柄橋へとおよそ5時間の戦跡めぐりだった。
訪ね歩いたのはアジア・太平洋戦争における犠牲者の慰霊碑や墓地、戦争の傷跡を残す身近にある戦跡だった。大阪では3月の大空襲で殲滅できなかった都市周辺が6月に入り大量焼夷弾攻撃で狙い内にされたという。至る所で惨状が繰り広げられた。

 ○東淀川地域は6月、3回にわたり激しい攻撃に晒された。7日にはB29(1機4000発近くの焼夷弾を抱える)が409機、最強の戦闘機P51が138機で襲い掛かった。近隣区域も巻き込んで焼き尽くし、さらに低空飛行でじゅうたん爆撃を行った。この空襲で東淀川区では13000戸が全焼、約26000人が被災したとのこと。
私のウオーキングコースにしている淀川の両岸は大火にみまわれ、長柄橋では避難する市民に爆弾と機銃掃射が容赦なく浴びせられ400名の死者がでた。
お隣の旭区・しろきた公園でも機銃掃射で1000名近くが死亡したと記されている。
「川筋にたくさんの死体」「焼けて体があついので川辺にみんないった」そこへ機銃掃射が襲った。「崇禅寺の駅から寺までは死体が累々」「空襲のあと長柄橋の上から北の方を見ると尼崎の神崎橋までまる見え。どこの家もないし、くすぼってる」。資料は逃げ場を失った人々の惨状を語っていた。
爆弾で一瞬に奪われた命、苦しみながら息絶えた命、戦禍から逃げまどう命。
  日の出町、崇禅寺、柴島など周辺でも多くの戦死者をだした。私たちはそれらの地域にある共同墓地や慰霊碑などを訪ねた。碑に刻まれたそれぞれの名前には一つ一つの命があったはず。資料に記された体験者の証言が甦る。

○この日最初に訪れた戦跡は、阪急淡路駅からほど近いところにある公園や住宅地の片隅にある高射砲陣地跡だった。こんな身近に戦争の遺物があることにビックリ。今は草蒸して朽ちた砲台外壁がポツンと歴史に取り残されていた。
当時(20年6月頃)はこの周辺に高射砲台6基、兵員150から160人が配置されていたという。現在は2か所が残存。近くに二つ目が在った。ここは現在倉庫として使用されていた。持ち主のご厚意で中を見学させていただく。一見道路に沿った静かな住宅の一部にしか見えないが、薄暗い倉庫に足を踏み入れると異様な構造物に威圧された。黒ずんだ鉄筋コンクリートの大きな円柱や、梁、床版などむき出しの砲台が当時の形をとどめて目の前に在る。タイムスリップをした感じだった。戦後70年余の今でもここが敵を迎え撃つ激しい陣地であったことを充分に伝えていた。こんな町角に貴重な戦争の生き証人が残っている!
「自分たちの代でもう保存はムリかもしれない」と所有者。なんとか保存活動ができないものかとつくづく思う。
 戦時には基地や軍需工場をはじめ公共施設も狙われる。柴島浄水場も標的となり水道も破壊された。浄水場の角には弾痕壁が残されていた。
この時の焼夷弾で柴島駅近くの法華寺は焼け落ちたとのこと。墓地に足を踏み入れ圧倒された。当時の大小墓石の全てが焼け焦げ、多くが欠け落ちヒビが入っている。茶褐色に焦げつき乾いた墓石が静かに並んでいる様は、戦火がまだつい最近の出来事として迫ってくるようだった。墓まで焼き尽くす戦争があった。
夕方、最後のコース、長柄橋戦跡を終わる頃にはガイドの森田先生を除き皆ヘトヘト。それでも良い経験をさせていただいた1日となった。
私自身はこれから何気なく歩いていた淀川河川敷で悲惨な歴史に思いを馳せるだろうし、街角のちょっとした碑や塔も少し気になりだしたから。
貴重な戦跡の保存や戦争を語り継ぐ大切さを知らされた取組みでした。

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