中川益夫先生を偲ぶ会に93名が集う |
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十二月六日、熊取町の煉瓦館コットンホールにおいて、地元・大学・非核平和の関係者の呼びかけで、当会代表世話人の中川益夫氏の「偲ぶ会」が催されました。中川代表の人柄と信念をあらわすエピソードが弔辞を述べられる人たちから語られます。 大学の仲間からは学内に保育所(アトム保育所との名前)つくりの際の苦労とその先頭にたたれた人柄、地元の文学サークルの女性からは手術後の療養が必要な時にも講座を欠かさず主宰されていた姿を、また地元の「六・九行動」にも継続は力として二人だけでも取り組まれ、学生さんには化学の「周期表」を渡して学習の大切さも訴えていた活動ぶりを、大阪原水協顧問の篠浦一朗氏からは学者であるとともに階級的な活動家でもある一面を、そして当会を代表して豊島達哉弁護士が被爆者支援の裁判闘争での中川氏の様子を語られました。 尚、非核の会及び原水協からは、兵庫や和歌山並びに大阪を合わせて12名が参加しました。また当会は、実行委員会の一員として偲ぶ会成功のため役割を担いました。 |
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生き続ける言葉 中川益夫さんをしのぶ 中川益夫さんには、当会の代表世話人として活動される以前からこだわりを持ち続けた言葉の表現がいくつかあった。「東北」「核兵器」「原水禁大会」などがそれである。 東北地方を「北東地方」と言いません、「北東」アジアというのはNorth-east Asiaという外国語の直訳で、正しくは「東北アジア」である。「東西対決」とは言うが、「西東対決」とは言わないのと同じように日本語は通例として東から始まるのです、と。 「核兵器」と表現したいときに略して「核」と言わないでほしい。核兵器を医療、農業、工業など人類に貢献している原子力と混同してはならない。「核」には原子核も細胞核もある。人類を滅ぼしかねない核兵器は省略せずにフルネームで表現すべきだ、と。 この二つの用例を批判されるときには中川さんはまだ心のゆとりがあった。しかし、「原水禁世界大会」と何気なしにいう人に「それは正確ではない」と指摘される際には「こだわり」に近い語感があった。わけあってのことである。 52年前の1963年、「部分的核実験停止条約」(核兵器開発のための地下実験と大気圏外での実験を合理化する米、英、ソの条約。すでに米、英は大気圏内の核実験のレベルを必要としない段階にまで達していた)をめぐって当時の社会党・総評が「核兵器廃絶への第一歩」として評価し、これを支持するよう原水爆禁止世界大会に押し付けようとしたが、この要求が受け入れなかったことから、社会党・総評が原水爆禁止世界大会から脱退し、原水爆禁止国民会議(略称・原水禁)を結成し、日本の原水爆禁止運動は分裂した。以降、前者を原水協の「原水爆禁止世界大会」、後者を原水禁の「原水禁世界大会」と称している。「原水禁」は、運動に分裂を持ち込んだ側の代名詞なのである。結局、部分的核実験停止条約(PTBT)は核兵器開発競争に免罪符を与え、核兵器貯蔵の飛躍的増大につながったことが誰の目にも明らかになり、その後、包括的核実験停止条約(CTBT)を、の声が高まり、今では核兵器不拡散条約(NPT)の締結が国際世論となっている。中川さんが部分核停条約のごまかしを見抜き、その後も運動に貢献されたことは言うまでもない。 こうした歴史的事実を知らない人が何気なく「原水禁大会」と表現するたびに、かつての苦い経験から、日本の原水爆禁止運動の正しい姿を示そうとされたのである。「こだわり」には科学者としての矜持が、あいまいさを許さなかったのだと私には思える。 「歴史は結局のところ人民の側に立ってくれます。それが歴史の方向でしょう。」という「阪南文芸第23号」の編集後記が絶筆となった。ご冥福をお祈りします。 非核の政府を求める大阪の会 常任世話人 長尾正典 |
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中川先生偲ぶ会ご案内 日時:2015年12月6日(日)午後5時〜7時 会場:煉瓦館コットンホール 熊取町五門西1丁目10−1 電話:072-453-0391 参加費: 1,000円 ※当日は平服でお越しください ※どなたでも参加できますので、ご縁のあった方がおられましたらお声をかけてください。 交通アクセス JR阪和線・熊取駅下車 駅前から南海バス(山の手台・小谷方面行)に乗車、「五門」で下車。徒歩約1分 |
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