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「戦争の傷あと銘板」銘板めぐり&清掃ツアー

 大阪府と各自治体が戦後50周年を記念して1995年に建てた「戦争の傷あと銘板」が府内12か所の地域にあります。場所と銘板に書かれた内容は、非核大阪の会発行のデータブックⅠとⅢに掲載していますが、15年が経って、汚れていたり、右翼の抗議の的になっているものもあります。そこで、非核大阪の会では、銘板めぐり・清掃ツアーを計画しました。

模擬原爆記念碑(東住吉区田辺)
生玉公園地下壕跡(天王寺区生玉町)
大阪城公園周辺に残る戦争の傷あと(大阪城公園)
「鶴彬の句碑」

旧制北野中学校本館西壁の機銃掃射弾痕(淀川区新北野)
豊中生まれの原爆詩人・峠三吉顕彰詩碑(豊中市岡町北)
十二宮神社境内防空壕跡(阪急石橋)
(旧海軍魚雷格納庫跡(阪急池田)

大阪警備府軍需部安威倉庫跡地(茨木市桑原)
タチソ地下壕跡(高槻市)

枚方市旧陸軍火薬庫土塁
香里製造所煙突

旧陸軍大正飛行場(現在の八尾空港)

堺市戦災殉難の地、堺大空襲を偲び平和を祈念する碑

円光寺つりがね堂→善兵衛ランド→水間寺(水間観音)

多奈川方面の潜水艦建造跡地等の戦跡を巡る
潜水艦建造のドック跡→謎のトンネル→朝鮮人宿舎跡→正教寺→加太砲台跡

大阪砲兵工廠跡フィールドワーク(第1回)

大阪砲兵工廠跡フィールドワーク(第2回)

新発見もあり、好評のうちに終わった
 第1回 銘板清掃ツアー

第1回ツアーのコース             
模擬原爆記念碑(東住吉区田辺)→生玉公園地下壕跡(天王寺区生玉町)→大阪城公園周辺に残る戦争の傷あと(大阪城公園)→「鶴彬の句碑」

模擬原爆投下跡地

image41.jpg 11月13日は、秋には珍しい黄砂現象で空はどんよりとしていました。地下鉄田辺駅前で毎日新聞の記事を見て参加された数名と非核の会の会員に代表世話人のあいさつの後、それぞれが簡単な自己紹介、すぐ徒歩数分の模擬原子爆弾投下跡地に建立された慰霊碑前に直行。常任世話人による非核大阪の会が把握している事実関係の説明を聞いて「実際の投下地点は田辺小学校の北側のどのあたりか」「なぜ米軍はこんな爆弾を作ったのか」「田辺が狙われた理由は」「パンプキンと言われるのは」などの質問が次々に出され、一気に和んだ雰囲気になりました。

生玉公園地下壕跡

image40.jpg 地下鉄谷町九丁目駅から生玉神社に行くと神前結婚式が行われていました。それを横目で見ながら南に隣接する生玉公園の西側斜面の階段を下ったところに銘板「生玉公園地下壕跡」がありました。新聞報道を見て参加されたMさんが「ハングル語の先生に案内されて一回来た。その時カメラを持っていなかったので、今度は一人で探したが発見できず悔しい思いをしていた。この機会にようやく探せてうれしい」と喜んでいただいて主催者の方も感激。銘板自体の記載内容の文字が見えないほどではないが、少し汚れていたのでペットボトルの水と洗剤で洗い、ぞうきんできれいにふき取りました。先祖の墓掃除の要領です。1991年にコンクリートで固められている入口を壊して大阪市が内部の調査をした時の地下壕内部の見取り図コピーを見ながら、通信施設として実際に使っていたという証言や、「第四師団司令部を移す」のではないかという、地下壕建設の目的や状況を聞きました。「それにしてもわかりにくいとこやな。銘板までの誘導表示が必要ではないか」との声が多数上がりました。

Mさんが「排気塔があったはずや」と言われたので、あちこちを探していたら坂を上がりきったところにそれらしきコンクリートの柱を発見。高さ2メートルほどあり、何の表示もありませんが、叩くと中が空洞になっていることがわかり、参加者一同、大阪市の見取り図にもない発見に大喜びでした。

大阪城公園に残る戦争の傷あと

 地下鉄谷町四丁目駅からかなり歩きました。大阪城公園には多くの観光客が訪れていました。少し外れた場所ですが、一応天守閣を正面に見る位置に大型の銘板が設置されています。意識しないと見過ごされる感じではあります。銘板の記載内容や前大阪城天守閣館長提供の地図を見ながら軍都大阪の中心に位置した砲兵工廠の規模の大きさや第四師団の役割などの説明を聞く。ここでもMさんが地図をさしながら「私は砲兵工廠のこの辺で働いていました」と記憶をたどりながら当時の話をしていただき、一同感心することしきり。

鶴彬の句碑

 そこから数分歩いて豊国神社東側に移動。戦時中に反軍活動でこの場所にあった衛戍監獄に2年近く収監された鶴彬は、プロレタリア川柳作家で、刑期満了後治安維持法違反で再逮捕、29歳で死去。没後70年の2008年、作家の澤地久枝さん、「上方芸能」誌の木津川計さんらの呼びかけで顕彰の銘石が建立されました。「こんな場所に大阪市が設置を許可したのはなぜだろう」との疑問に、平和委員会のTさんが「銘石はだめ、しかし百日紅の樹三本を寄付する、その付属品としての石」として認められたいきさつを説明、納得。

予定の4時半にツアーは終了、「少し疲れたが、いろんなことがわかり、有意義な企画でした。」「非常にためになった。これからも参加したい」「戦争の傷あと銘板が12枚もあることをもっと府民に知らせていくべき」などの感想が寄せられました。参加者は14名でした。
予定の4時半にツアーは終了、「少し疲れたが、いろんなことがわかり、有意義な企画でした。」「非常にためになった。これからも参加したい」「戦争の傷あと銘板が12枚もあることをもっと府民に知らせていくべき」などの感想が寄せられました。参加者は14名でした。

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機銃掃射の弾痕の残る北野高校から峠三吉顕彰碑へ  
第2回ツアーのコース

旧制北野中学校本館西壁の機銃掃射弾痕(淀川区新北野)→豊中生まれの原爆詩人・峠三吉顕彰詩碑(豊中市岡町北)→十二宮神社境内防空壕跡(阪急石橋)(旧海軍魚雷格納庫跡(阪急池田)

DSCN2873.jpg 第2回目となる今回は、阪急十三駅に集合し、北野高校まで徒歩で移動、北野高校では、教頭先生が応対、銘板の設置場所まで案内してもらいました。地元の歴史に詳しい、参加者のIさんが米軍の機銃掃射で犠牲になった生徒を悼んで建てられた句碑について詳しく説明。(別紙参照)銘板の汚れを拭いて清掃、中川代表の挨拶と参加者の自己紹介の後、次の峠三吉顕彰碑へと移動しました。
峠三吉の詩碑は、豊中市の岡町図書館正面玄関前に設置されており、日本語と英語で「にんげんをかえせ」の詩文が書かれています。詩文の傍には、1995年10月15日に非核平和宣言都市・豊中市として建立された戦後50年・被爆50年「峠 三吉」顕彰詩碑があります。

峠三吉詩碑の日本語文(表面)と英語文(裏面)
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海軍魚雷保管庫あと

 その後、阪急池田駅へ移動、バスで十数分の余野川沿いにある東山で下車、15分くらい歩くと、旧海軍魚雷保管庫跡があった場所に到着です。しかし、その場所は、人が出入りしたり崩れたりすると危険だからという理由で、すでにコンクリートで塞がれており、周りを見ても立て看板もなく、そこに魚雷の保管庫があったことなど全くわかりません。
image_0004.png地元の人の話を総合すると、明治時代から磨き砂を採取するために採掘した穴が相当長いトンネルとなっていたので、軍が戦争末期に手を加え、魚雷貯蔵に使ったとのことです。

すぐ横に50年近く住んでおられるHさんは、「20年ほど前に、土砂崩落が激しく、危険な状態があったので国・府で全部塞いでしまった」。と語っておられました。
image_0005.png  旧陸海軍関係資料によれば、「池田市東山横穴」に「魚雷105、実用頭部110、爆発弾119、信管134、伝爆薬143、火管540」などとなっている。海軍第52魚雷調整班によって細河国民学校(現細河小学校)で、調整や整備が行われていた。
 なぜこんなところに海軍か。伊丹飛行場から発進する海軍攻撃機に搭載する魚雷として装着するため。戦争末期には、飛行場周辺の軍事施設に対する爆撃や空襲が頻繁となったため、あまり遠くないが、少し離れた五月山山麓に施設を移したと思われる。

防空壕跡

image_0006.png魚雷保管庫跡を後にして、バス停までの道を花や植木を見学しながらブラブラし、会員が作ったカップケーキをいただきながら暫し休憩、その後バスで池田に戻り、そこからタクシーに分乗して、最後の見学地の十二宮神社境内へと向かいました。ここには、防空壕跡があり、銘板が設置されていました。午後5時、予定の行動を終え、解散しました。
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今回の銘板めぐりは17名の参加がありました。
次回は茨木市の「大阪警備府軍需部安威倉庫跡地」や高槻市の「タチソ地下壕跡」をめぐる予定で、秋に計画されます。

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第3回戦争の傷あと銘板めぐり&清掃ツアー

  第3回ツアーのコース
大阪警備府軍需部安威倉庫跡地(茨木市桑原)→タチソ地下壕跡(高槻市弥生が丘町)

大阪警備府軍需部安威倉庫跡地

kuwanohara.jpg 大阪警備府軍需部安威倉庫跡地へは、阪急茨木市駅前からバスで、約20分、桑原橋で下車し、 銘板のあるところまで、無人の野菜販売所などを覗きながら歩きました。銘板の前で、中川代表の挨拶と参加者の自己紹介の後、長尾常任世話人の説明を聞き、銘板を清掃、少し歩くと、生い茂っている木の間に地下トンネルの入り口らしきものを見つけ、一同大喜び。

soukoato.jpg ここには、被服、下着、航空被服、米、乾パン、缶詰などが大量に保管されていたとする記述が残っています。安威川を眺めながらバス停まで移動、バスを待つ間、往路に覗いた無人野菜販売所で新鮮で安い野菜を購入する人もいました。

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タチソ地下壕跡

tachiso_meiban.jpg その後、高槻市駅から市営バスでタチソの銘板前に到着しました。高槻市会議員中村玲子さんの説明を受けて、ここでも清掃。この銘板前には、お米や塩、お金などが供えられて周辺の人たちに大切にされている様子がうかがえました。ここは川崎航空機明石工場の一部が移され、実際に陸軍三式戦闘機「飛燕」のエンジンを生産していました。
tachiso_meiban2.png 大阪府内12か所ある銘板の中でも「強制連行された朝鮮人」の文言が書かれてあるのは、第1回で訪れた「生玉公園地下壕跡」及び「大阪城公園内に残る戦争の傷あと銘板」と、今回訪れた2カ所の計4か所です。右翼の攻撃の的になっていることもあり、こうした記述が削られるのではないかとの危惧や保存運動の必要が語られました。

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第4回戦争の傷あと銘板めぐり&清掃ツアー

第4回ツアーのコース
枚方市旧陸軍火薬庫土塁と( 通称・禁野火薬庫)香里製造所煙突
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5月19日、当会主催の銘板めぐりに参加しました。目的地は枚方市旧陸軍火薬庫土塁と(通称・禁野火薬庫)香里製造所煙突。
image48.jpg1896年、大村益次郎の構想による火薬庫造営、以後枚方は軍事工場の町となる。


image53.jpg1909年大規模爆発、1939年大規模爆発、1945年終戦、1950年


朝鮮戦争
1952年、小松製作所に払い下げにより砲弾製造再開、朝鮮戦争による特需
1909年1回目の事故は自然発火によるとされ多くの人々が犠牲になりました。1939年2回目の事故は、人為によるとされています。爆発が4時間、29回繰り返されたそうです。

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この経験から、枚方市は1952年の政府から小松製作所への払い下げで再び砲弾製造を再開しようとしましたが、兵器製造反対の市民運動と火薬工場反対を枚方市議会が決議しました。1953年当時、朝鮮戦争による特需で日本経済が潤ったと聞いていますが、その死の恩恵にあずからない、拒否した枚方市は歴史と経験に学んだ市民と思いました。
歴史の風化の中で、地形を利用した軍事施設は、今は住宅地となり慰霊碑は心ある人々の手で守られていました。  T.H

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第5回戦争の傷あと銘板めぐり&清掃ツアー

第5回ツアーコース
 11月24日、第五回目となる戦争の傷あと「銘板めぐり&清掃ツアー」を実施しました。今回は、旧陸軍大正飛行場(現在の八尾空港)に関わる「傷あと」をめぐり、12名が参加。コースは、高安山麓につくられた戦闘機の格納庫・・・垣内(かいち)の掩体壕から大正飛行場の予備滑走路…穴太(あのう)の仮滑走路跡です。

[参加者の感想を紹介します]
第五回銘板めぐり&清掃ツアーに参加して
DSCN38751.jpg 今回、行った処は、負戦直前より15年間、少年、青年時代を過した、現在八尾市の山手、垣内です。15年間に見聞きした事、いつかは人々にも知ってもらいたい思いがありました。近鉄恩智駅を降りると懐かしい人々が迎えて下さいました。中川、長尾諸氏です。足も軽やかに山手を指して車移動。恩智の旧村を通り越し南高安小学校(私の母校)迄来ると私は68年前にタイムスリップ。学校から垣内の部落までは家のない一本道(東高野街道)今は、家々が立ち並び十歳の時通学した景色を思い出すのには時間がかかりました。目的地の掩体壕迄来ると私の頭の中は、右往左往、格納庫(当時、そう呼んでいました)は私がこの地を離れた時と全く同じ状態で残っていました。完成した時はもっと奥行きのある大きなものだったのですが、朝鮮戦争の時にコンクリートを破って中に使われている鉄骨を取るために破壊しましたが、鉄は出て来ず、木や竹で作られていたことが判り中止したのが今の姿です。現在横で畑仕事をしておられた地主の松倉さんとおはなしが出来て大変懐かしく思いました。私たちは疎開もん、焼け出されての家族でした。村の人々のあたたかいお世話で暮らせた事を心に留めおきながら第2のふるさとを後にしました。              I.N

第五回「戦争の傷あと銘板めぐり」(大阪非核の会主催)に参加して
DSCN38941.jpg この10月、奈良県香芝市ではNPO法人主催で第11回「平和のための香芝戦争展」を行いました。今回初めて実行委員として参加した私は、『香芝の戦争遺跡』リーフレット作りにもかかわり、香芝にある戦没者墓地や学校替わりに使われた多くの寺院、軍需品を造っていた工場跡等、今も残る多くの地元の遺跡をたずね、感慨を新たにしました。
 本市のどんずる峯地下壕遺跡と八尾大正飛行場との関係についても知ることができました。そして今回「大阪非核の会」の八尾垣内の掩体壕の見学では、無惨に今も残る迫力ある戦闘機格納ドームを見て何とも言えない衝撃を受けました。なんとちゃちな、格好だけの格納庫、それがほったらかしにされ、風雨にさらされ…中は畑になっている…。
 しっかり保存し、日本の軍部の愚かしい戦争遂行をきっちり知っていかなければと思うとともに、来年の香芝の「戦争展」に向け、日本の軍部を中心とした「負の遺産」を本市に於いてもしっかり捉え、学んでいきたいと思いました。 
                                                         香芝市・N(年金生活者)


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第6回戦争の傷あと銘板めぐり&清掃ツアー

第6回ツアーコース
堺市戦災殉難の地、堺大空襲を偲び平和を祈念する碑

DSCN40841.jpg 5月18日、巷では女性を戦争や性の道具とみなす橋下氏、それに輪をかけるような発言が続く維新の会。韓国はもちろん世界の国々から異議が唱えられる。そんな折に第6回戦争の傷あと「銘板めぐり&清掃ツアー」が企画されました。
DSCN40861.jpg 集合の堺駅では、地域の方々の振るまいお薄と和菓子をいただき、幸先よい出発です。
DSCN40871.jpg 堺市戦災殉難の地、堺大空襲を偲び平和を祈念する碑はともに駅からすぐにあり、昭和20年7月10日未明の空襲により旧市全焼。戦争の悲惨を後世に伝え、平和を祈り建立されたものです。利休屋敷跡では「椿の井戸」を前に、小さき・狭き・簡素・地味なものを美とした利休をしのびました。

DSCN40991.jpg 堺旧市街の街並みは、道もゆったり広く、そこここに花が咲きのびやかな空気が漂います。


DSCN41081.jpg与謝野晶子生家跡では、立派な碑を写真に収めました。大阪府立泉陽高等学校にある「君死にたまふこと勿れ」の歌碑へも行きたかったのですが、土曜日で立入りが認められず、晶子と鉄幹が初めてデートした浜寺公園へと向かいました。残念、以前は入れたそうですが・・・。


DSCN41091.jpg 色とりどりの花々を満喫し、バラの香につつまれて帰路につきました。

 5月31日、国連人権高等弁務官事務所第50回拷問禁止委員会が軍慰安婦に関し、事実を否定することをやめ、関連資料を公開し精査せよとの勧告(Victims of military sexual slevery)をだしました。
M.A

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第7回戦争の傷あと銘板めぐり&清掃ツアー

第7回ツアーコース
円光寺つりがね堂→善兵衛ランド→水間寺(水間観音)

2013_1122_m001.jpg戦後50周年(1995年)に当り、大阪府と各自治体に設置された戦争の傷あと銘板の一つで、次の銘文が記されています。

「円光寺つりがね堂」
20131122_02_m.jpg 1945年7月10日未明、堺空襲に飛来したアメリカ軍のB29の一部が、貝塚にも焼夷弾を投下した。この時被害を受けたのは、東、海塚、中、近木、西の各地区で、家屋が炎上し死傷者を出した。特に小住宅が密集していた東地区では、約150世帯が焼け出され、死傷者が多数出た。貝塚市の死者は20数名、そのうち16名が東地区の住民であった。焼け出された人の中には、植民地支配の中で、日本で生活していた朝鮮人も含まれていた。
 円光寺つりがね堂の軒先に残る焦げ跡がその時の猛火を今に伝えている。

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   1995年11月
                                              大阪府・貝塚市
今回は、貝塚を訪ねました。参加者の感想を紹介します。
第7回“銘板めぐり”に参加して
 私は貝塚市の空襲については全くの無知でしたので、今回初めて“銘板めぐり”に参加させてもらいました。訪問先の「円光寺つりがね堂」で柱や軒先に焦げ跡が残っているのを確認して、貝塚にも空襲があったことを実感しました。
 それにしてもなぜ貝塚規模の町が焼夷弾攻撃を受けたのかその理由を思い巡らしていると、円光寺一帯は市の海側に位置し当時は軍需工場があったと長尾さん(当会常任世話人)からコメントがありました。つまり、米軍は軍需工場などの極秘情報を正確に把握しており、小都市貝塚たりとも綿密に作戦を立てて計画的に空爆したということのようです。
 銘板には1945年7月10日未明に空襲があり、朝鮮人を含む20数名の死者が出たとありました。思わず、強制連行してきた朝鮮人ではなかっただろうかと考えてしまいました。(尚、この日は堺市にも空襲[5回あったうちの4回目]があり、堺空襲最大の被害を蒙っています。)
 今回のツアーでは善兵衛ランド(貝塚市立天文台)に寄って昼間の星観察に感動し、また、水間寺を訪ねて古刹の雰囲気を味わいました。次回は岬町(潜水艦等製造地)あたりを考えているとのこと、実施されれば是非参加したいと思います。(会員T.M )

20131122_06_m.jpg宇宙と地球、戦争と平和を考える銘板めぐり
 国会では「特別秘密保護法」を制定させようと自公政権が躍起になっているおり、「戦争を絶対繰りかえさせてはいけない」という強い気持ちで、銘板めぐりに参加する。
 11月22日、秋晴れの透きとおる青空と真っ赤な紅葉のコントラストがとても美しい昼下がり、午後1時30分に南海・貝塚駅に12名が集合。三台の車に分乗し、10分たらずで円光寺に到着。まず目に入ったのはきれいに手入れされた円光寺入口の銘鈑に感激。
 19457月10日、堺の空襲と同時に貝塚にも焼夷弾が投下され家屋が炎上、その時に円光寺の釣鐘堂も類焼し、その軒先に焦げ跡が残っており、68年たった今も私たちの目にもはっきりと確認することが出来、戦争の傷跡を残し伝えることの大切さをあらためて認識する。また、銘板の文言に「焼け出された人の中には、植民地支配の中で、日本で生活していた朝鮮人も含まれていた。……」と日本の加害の部分が明記されており、維新に反撃しながら内心ほっとする。
20131122_05_m.jpg 次に訪れたのは小高い丘の上に立つ「善兵衛ランド」で、この建物は、江戸時代に日本一優れた望遠鏡を作った貝塚生まれの岩崎善兵衛さんにちなんで1992年に開館した天文施設である。その館内入り口に貝塚市民憲章が掲示させており、その一文に「 わたくしたちは、平和をつちかい、自由と平等の心むすび合うまちづくり……」とあり、私はすっかり平和のモードに浸って中に入る。とてもわかりやすい説明を聞き、望遠鏡に触れ、のぞきこんで見ると「なんと、37光年も離れた星のきらめきとゆっくり動く太陽のプロミネンス(紅炎)を見ることができるではありませんか」感動とあわせ、幼いころを思い出し、夢とロマンあふれる体験にワクワクしていた。
20131122_09_m.jpg 最後に水間寺を訪問。名の通り川のそばに建てられた古いお寺で、シーンと静まりかえった境内に立ち、目を閉じると建立された時代やその後の荒れ狂う時代、そして今に伝えるおもむきを感じることが出来き、心静かな平和を願いながら水間電車に乗り帰途につく。
20131122_11_m.jpg 「二度と戦争をおこしてはならない」という強い信念と日々の運動の大切さを学ぶことができ、わくわくする宇宙をのぞけたことは私にとってタイムリーで貴重な体験でした。ありがとう。          
 (平和委・K.Y)

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第8回戦争の傷あと銘板めぐり&清掃ツアー

第8回ツアーコース
~多奈川方面の潜水艦建造跡地の戦跡と加太砲台跡を巡る~
潜水艦建造のドック跡→謎のトンネル→朝鮮人宿舎跡→正教寺→加太砲台跡
5月31日(土)、多奈川方面の潜水艦建造跡地とその周辺を巡りました。岬町9条の会の皆さん大変お世話になりました。
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参加者の感想を紹介します。
 「戦争の傷あと、銘板めぐり&清掃ツアー」という不思議な企画名に惹かれて、思わず参加申込みをしたというのが実情で、炎天下でのフィールドワークで、現地の岬町で平和運動されている方のご協力でこの戦跡めぐりを体験できたと思う。現地の方のご苦労に改めて感謝したい。
m_0131.jpg いろいろなところを訪問したが、それぞれの印象深く、そこに足を運ばねばリアルに実感できないという臨場感もさることながら、ただ観るだけではわからないことも多いので現地の説明などを聞くに連れ、かつてここに軍需工場というのか日本海軍の潜水艦を製造していたドックがあったこと、そのために多数の囚人や強制労働によって従事させられ、またこの地で故郷の地を踏むことなく亡くなられた人々がいたことに思いを馳せることができた。
 岬町の中の多奈川谷川(大字、小字?)の正教寺(浄土真宗本願寺派)には、強制労働にかかわった人の遺骨が納められていた。当時としては、法名(他宗では戒名)をつけて納骨されているということは、死者に対する差別をしなかった例として珍しいことだと聞いた。当時としては死者とは言え、朝鮮の人々を一般人と同列に扱わないこともままあったらしく現在の住職のお母さんにあたる方がその先々代の住職のとった行動について話してくれた。私たちのこの日の訪問のために前日までに随分がんばって調べてくれたと聞いた。かつては小学校で教職をされていたと聞いて、要点を押さえて報告されていた。これにも頭が下がる思いだ。
 その後、かつての軍事基地を見渡せる場所に立ち、すっかり変わり果てた関西電力の発電所を見た。戦後すぐに、米軍により撮影されたという航空写真を現地の方に見せてもらったがとても詳しく、ここに潜水艦があるぞと言わんばかりにきれいにドックが映っている。それから戦時中に掘ったという「謎のトンネル」を見て、朝鮮人や囚人たちが暮らした宿舎跡の見学を行った。最後に由良要塞(淡路島、紀伊半島を間の海峡を守る砲台などを備えた軍事要塞)跡地で和歌山側の跡地を見学した。砲台の地下の弾薬でも入れたのだろうか煉瓦造りの頑丈な地下の基地跡を見た。ここには五〇〇〇メートルまでしか砲弾が届かない大砲が淡路島、紀伊半島の両側にあったらしく大阪空襲を行ったB29はこの海域を確かに通って高度一万メートルを悠然と飛行したらしい。参加者の誰かが「これでは勝てるわけがない」と漏らした。
 これら戦争における無数の悲劇の背景には、「皇国日本」という異常な価値観、それ以外の文化を否定し、貶め、差別してきたという目を背けたくなるような教育政策がある。
 またその戦前のとっくに葬られているはずの価値観を振り回す人たちが、総理大臣をやっていたり、市長をやったりしている。それで「教育改革」をやろうというのだ。
 周辺の国々の国民から「やっぱりお前たちは反省していないのか」と言われても仕方がない状況だ。グローバル化だの国際社会に対する責任云々が言われながらも、自国の歴史の事実、少なくとも海外の多くの国から見た日本を客観的に知るということから目を背けている以上は、まともな外交が期待できない国と思われるのではないだろうか。今回改めて思ったことは、戦跡はかつての教育の異常を正直に伝えているということだ。 
                                                                     M.K


河内長野市会議員丹羽実さんのブログ「にわ実だより」から転載いたしました。
31日(土)非核の政府を求める大阪の会が主催する、第8回戦争の傷あと/銘板めぐりツアーに参加しました。
 サブタイトル「多奈川方面の潜水艦建造跡地等の戦跡と加太砲台跡を巡る」です。
南海電鉄/本線 みさき公園駅集合、 なんば~みさき公園駅 790円 区間急行で約60分。 そこから乗用車5台で移動です。
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上の写真は、昭和20年頃の多奈川・深日町の概略図です。
初めに正教寺というお寺で、多奈川・深日町あたりで潜水艦が建造されていた話とその時の朝鮮人労働者の遺骨13体中4体の分骨を見たりしました。
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正教寺から見た今の岬町
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潜水艦建造は、川崎造船(本社神戸市1939年川崎重工業と改称)は急増した海軍からの受注に対応するため、多奈川・深日地区の買収用地と埋立地に泉州工場を建設。買収に3年もかかっている。相当住民の抵抗があったようです。 泉州瓦の工場がたくさん有った。

泉州工場では中・小型潜水艦など28隻を建造した。

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川崎重工業(株)の社史より抜粋/伊=大型潜水艦、呂=中型潜水艦、波=小型潜水艦。 泉州工場での建造分のみ。
 この表を見ると、中型艦で8ヶ月、小型艦で5ヶ月くらいで建造しています。伊の大型艦は3隻とも建造しても工事中止など1隻も引き渡しされていません。終戦間際、1945年7月の造船所の空襲などで思うように建造できなかったようです。

 ネットで調べると、例えば 潜水艦呂112は、1943年9月14日引き渡し、1945年4月25日沖縄南方で米上陸用輸送艦に攻撃され?沈没となっています。 結局1年と半年しか任務についていません。
  呂112二等潜水艦の性能は、排水量525トン、全長60.9m、全幅6m、動力機関はディーゼル2基2軸、水上1000馬力、水中760馬力、速力水上 14ノット水中8ノット、燃料重油50トン、乗員38名、兵力25mm機銃1基2挺、魚雷発射管4門、52cm魚雷8本、安全潜行深度75m。
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昭和22年当時のアメリカ軍が撮影した航空写真(白黒)を手に、工場跡地を説明してもらいました。  とても鮮明な航空写真です。 角にはKODAK(コダック)の英文字も見えます。
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写真のように現在は、川崎重工泉州工場はなく関西電力多奈川火力発電所になっています。
 南海電鉄多奈川線は、この工事に必要な資材搬入のため敷設されたものです。
造船所建造に当たって関連事業を請け負ったのは、飛島組・清水組・日産土木で作業員は大阪捕虜収容所多奈川分所のアメリカ兵、蘭印捕虜約600名、大阪刑務所の因人数百名、朝鮮からの強制連行者や自主的な労働者でした。
 1945年7月25日、米第28機動部隊の艦載機10機からの爆撃を2回受け、34個の爆弾が投下される。死者28名、重傷者32名。    「岬町の歴史」より

 その後、なぞのトンネルや朝鮮人宿舎跡などを見学しました。
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地元、9条の会、正教寺さん、町会議員の中原さん 案内ありがとうございました。
「加太砲台跡」
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加太砲台跡は、写真にあるように「由良要塞」の加太地区の9ヶ所、友ケ島6ヶ所、淡路島由良10ヶ所の中の1ヶ所です。 見学したのは、「休暇村紀州加太」に行く手前から徒歩10分の所にある「深山第一砲台」の(6門)跡地です。
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6門の大砲の配置図が上の写真です。
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石段を降りてゆくと、弾薬庫です。
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今でも残っている弾薬庫。
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内部は結構広いです。
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深山第一砲台は、明治25年着工-明治32年完成し由良要塞の一つになる。
昭和20年の終戦まで使われていた。となっています。
 確かに、淡路島の鳴門海峡と由良海峡・友ヶ島・加太の海峡を3つを押さえれば、太平洋側から瀬戸内海への船舶の進入を止められます。
  しかし、艦載機からの空襲には何の役にもならなかったのが終戦間際の戦争でした。実際米軍のB29爆撃機は、上空1万mからやってきて、1000mくらい まで降下し目標に爆弾を落として行った。ゼロ式戦闘機などは、たぶん高度7000mくらいしか上昇できなかったと言われています。
 実際の大砲は、ありませんが深山第一砲台には28cm榴弾砲が6門あったと書いています。
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上の写真は、砲台横の壁ですが何やら直径10cmくらいの穴が空いています。

 これは、地下にある弾薬庫と地上の砲台との連絡を取り合うための「伝声管」です。
「伝声管」て、何かご存知ですか


  現在では、自衛隊の艦船に一部残っていると聞きますがほとんど使われなくなった連絡用インターホンの役目の管です。  実際には、マイクもスピーカーも電 気も必要としないインターホンです。  音の伝搬は、距離の2乗に比例して減衰するので、距離が2倍遠くなれば1/4になり、3倍遠くなると1/9に小さ くなります。  しかし 伝声管を使うと管のカーブや継ぎ目のデコボコで減衰するくらいですから、200~300mくらい声は届くようです。  戦艦の操 舵室から砲手の所くらいは伝声管で使えたそうです。

最 後に、口径28cmの榴弾砲はどんな大砲だったんどろうか? 良く聞く大砲でも105mmとか155mmの口径です。 280mmの口径の大砲。 射程距 離も20km以上でしょうか。直径30cmあまりの打ち上げ花火の尺玉を上げる発射筒ですかね? ネットで調べても写真がありませんでした。

 しかし戦争は、ムダな物をたくさん作った。お金も材料も人手もたくさん使っていたんですね。  その究極は核兵器です。bomb
 絶対に使ってはなりません、早く地球上からなくしましょう

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第9回戦争の傷あと銘板めぐり&清掃ツアー

大阪砲兵工廠跡フィールドワーク(第1回)に参加して

miban09_241.jpg 10月17日(土)の午後、大阪砲兵工廠研究の第一人者の三宅宏司武庫川女子大学名誉教授の丁寧な説明と案内で、今も残る建造物の南半分を巡りました。

miban09_211.jpgまず、森ノ宮団地内に建っている「砲兵工廠跡碑」に向かい、そこから現在もまだ線路が少し残っている砲兵工廠への引き込み線(スイッチバック)があった跡、「大阪砲兵工廠診療所跡」(現在はピースおおさか)、駐車場にするため盛り土がされて、半分土に埋まってしまっている「大阪陸軍城南射撃場跡碑」、教育塔横を通り、「被服廠跡」(移転前のNHKがあったところ)、「歩兵第八聯隊跡碑」、「大村益次郎殉難碑」をめぐり「歩兵第三十七聯隊跡碑」が建立されている国立病院機構大阪医療センター前で、次回に期待して第1回目を終了しました。

miban09_291.jpg 普段何気なく通っている場所に様々な戦争遺跡があることにまずびっくり、この辺り一帯の広大な土地は今も国の所有物であることなど、知らないことばかりで実際に見て学ぶことの大切さを実感した半日でした。
miban09_251.jpg 次回は来年前半ごろにまた企画します。参加者は21名でした。参加された方々より、「非常に良かった。大阪城公園の今までのイメージが変わった。次回も是非参加したい。」「説明がとてもわかりやすく良かった。次回が楽しみ」等の感想が届いています。

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第10回戦争の傷あと銘板めぐり&清掃ツアー

 三宅宏司武庫川女子大学名誉教授のご案内で「大阪砲兵工廠跡」の今も残る建造物の数々を訪れました。JR京橋駅からスタートし、ガラス工場跡や京橋空襲慰霊碑、大阪社会運動顕彰塔、荷揚げ門、化学分析場、第4師団司令部庁舎等などを巡り、大阪砲兵工廠跡碑では、二人連れの市民が飛び入り参加、熱心に説明を聞いたり、写真を撮ったりしていました。参加者は、14名でした。
参加者からの感想は以下の通りです。

DSC_5200.jpg大阪砲兵工廠フィールドワーク 
 三宅宏司武庫川女子大名誉教授のガイドで(第二回)
 5月23日、大阪環状線の京橋から森ノ宮間の西側から大阪城にかけて存在した東洋一の巨大な軍需工場、大阪砲兵工廠の歴史と今も残る数少ない建造物を巡るフィールドワークに参加しました。
1945年8月14日の終戦前日の大空襲によって壊滅するまで75年間大型兵器を造っていたことを知りました。当時、65,000人が働いていたそうで、そこで造った兵器で領土拡大、侵略戦争を続けていたのです。大空襲により、京橋駅では一般の乗客が多数犠牲になり、今も慰霊祭が行われています。戦争の無謀な歴史を残そうという運動がある中、本部本館は一方的に崩され、今は大阪城ホールに変身、移動された碑だけが建っています。それも、何の説明版も無く教えてもらわなければ素通りするだけでした。石造りのアーチ型の砲兵工廠荷揚げ門(写真)は、当日ガイドして下さった三宅先生の懸命の努力で唯一残されたものですが、目立たず説明板もありません。現在緑溢れる大阪城に、場違いのレンガ造りの建物がいくつか残っていますが、保存する気のない大阪市は朽ち果てるのを待っているようです。今、私たちは過去の反省をしながら、遺構を未来に残し、戦争をしようとする勢力と闘わなければならないと熱く心に刻みました。 今村久美子

 勤労協近現代史教室で「軍都大阪」を学び、大阪城戦跡巡りも参加してきましたが、今回はポツンと残された碑や建物の歴史的意味を考えさせられた深い企画でした。小学校六年から京橋の商店街の外れで育ち、高校は玉造まで通っていましたので、三宅先生の「京橋」の「都市計画」のお話はずっと感じていた違和感を払拭できました。今後の大阪の発展のためにも、「軍都大阪」の歴史を残す遺跡に、せめて看板をかける運動をと思いました。 中村玉枝


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